コラム

熱狂なき蔡英文の就任演説に秘められた「問題解決」への決意

2016年06月06日(月)16時33分

Tyrone Siu-REUTERS

<台湾総統に就任した民進党の蔡英文が5月20日に行った就任演説には、興奮も扇動も、名言もなかった。台湾に初めて登場したこの問題解決志向型のリーダーが、最も言いたかったことは何だったのか> (就任演説の様子)

 私も時々講演をさせていただくので何となく分かるが、講演のプランを立てるときに最初に考えるのは「つかみ」と「締め」である。別の言い方を借りれば「起承転結」の「起」と「結」ということだ。「起」と「結」さえしっかり固まっていれば、あとは中身を詰めるだけである。そして「起」と「結」に話し手としては、強い思いや最も言いたいことを込めるものである。

 台湾総統になった民進党の蔡英文が5月20日に行った就任演説に対する正直な感想は、台湾総統の就任演説としては、いわゆるニュース的な切り口が見当たらない、という点だった。記者泣かせといえば確かにそうだ。しかし、それこそが、蔡英文の最も蔡英文らしいところなのである。面白さは求めない。興奮も煽動も要らない。蔡英文にとっては「I have a dream」から始めることではなく、「What should I do?」が、第一なのである。

 そんな観点から、蔡英文の就任演説での言葉を追っていくと、真っ先に出てくるのが「困難を解決する」というフレーズであった。この言葉が成立するには、台湾が困難な状況に置かれている、という前提に立たなければならない。ところが、私たち日本人からすれば、民進党は初めて総統選で勝つだけではなく、立法院でも多数を制する「完全執政」を成し遂げた。本来ならば熱狂を呼び起こすような「喜び」から入ってもいいはずだ。しかし、蔡英文という指導者は、まず間違いなく意識的にあえて悲壮感たっぷりに「困難の解決」から説き始めた。それは彼女が最もアピールしたいことだったからだ。

【参考記事】「ヒマワリ」の影が覆う台湾新総統の厳しい船出

これまで台湾になかったタイプのリーダー

 その後、彼女が演説で並べたのは、台湾社会が直面する多くの課題のことだった。若者の雇用難、エネルギー問題、高齢化・少子化・環境問題、転換期の正義の問題など、いわゆる個別の経済・社会政策である。これが、行政院長(首相)に任命された林全の演説だと言われても疑問は感じないだろう。

 蔡英文のこれらの言葉を聞きながら、私が思い起こしたのは2012年の総統選で蔡英文が敗れた日の演説だった。おそらく台湾の政治史に残る名演説は、4年後の当選を約束させる起点ともなった。蔡英文は小雨の振るなか、支持者に向けてこうやって語りかけた。

「今日は泣いてもいいけど、明日からまた頑張ろう」

 そして、5月20日の蔡英文は、恐らく、こう言いたかったはずだ。

「今日は喜んでもいいけれど、明日からまた頑張ろう」と。

プロフィール

野嶋 剛

ジャーナリスト、大東文化大学教授
1968年、福岡県生まれ。上智大学新聞学科卒。朝日新聞に入社し、2001年からシンガポール支局長。その間、アフガン・イラク戦争の従軍取材を経験する。政治部、台北支局長(2007-2010)、国際編集部次長、AERA編集部などを経て、2016年4月に独立。中国、台湾、香港、東南アジアの問題を中心に執筆活動を行っており、著書の多くが中国、台湾でも翻訳出版されている。著書に『イラク戦争従軍記』(朝日新聞社)『ふたつの故宮博物院』(新潮選書)『銀輪の巨人』(東洋経済新報社)『蒋介石を救った帝国軍人 台湾軍事顧問団・白団』(ちくま文庫)『台湾とは何か』『香港とは何か』(ちくま新書)。『なぜ台湾は新型コロナウイルスを防げたのか』(扶桑社新書)など。最新刊は『新中国論 台湾・香港と習近平体制』(平凡社新書)

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

訂正-米、イランのフーシ派支援に警告 国防長官「結

ワールド

トランプ氏、ウォルツ大統領補佐官解任へ=関係筋

ビジネス

米債市場の動き、FRBが利下げすべきとのシグナル=

ビジネス

米ISM製造業景気指数、4月48.7 関税コストで
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
2025年5月 6日/2025年5月13日号(4/30発売)

「ゼロから分かる」各国・地域情勢の超解説と時事英語

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に高く、女性では反対に既婚の方が高い
  • 2
    マリフアナを合法化した末路とは? 「バラ色の未来が来るはずだったのに...」
  • 3
    タイタニック生存者が残した「不気味な手紙」...何が書かれていた?
  • 4
    ウクライナ戦争は終わらない──ロシアを動かす「100年…
  • 5
    インド北部の「虐殺」が全面「核戦争」に発展するか…
  • 6
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新…
  • 7
    悲しみは時間薬だし、幸せは自分次第だから切り替え…
  • 8
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 9
    クルミで「大腸がんリスク」が大幅に下がる可能性...…
  • 10
    【徹底解説】次の教皇は誰に?...教皇選挙(コンクラ…
  • 1
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 2
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 3
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新研究】
  • 4
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 5
    ロシア国内エラブガの軍事工場にウクライナが「ドロ…
  • 6
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に…
  • 7
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 8
    マリフアナを合法化した末路とは? 「バラ色の未来…
  • 9
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 10
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 3
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 4
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 5
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 6
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 7
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 8
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
  • 9
    クレオパトラの墓をついに発見? 発掘調査を率いた…
  • 10
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story