コラム

アンジーが開けた遺伝子という「パンドラの箱」

2013年05月22日(水)08時30分

 アンジェリーナ・ジョリー(37)が乳癌を「予防する」ために両乳房の切除手術を行いそれを公表したことは、ここアメリカではおおむね絶賛されている。

  だが私は、このニュースを聞いて震え上がった。乳癌だと診断されたわけではないのに、遺伝子検査で将来乳癌を発症するリスクが高いと判断されたというだけで両乳房を切除? アンジーの「英断」に拍手喝采が起きているということは、予防のためにそこまでやるのがアメリカではスタンダードなのか。

  私が震え上がったのは、言うまでもない。母が乳癌経験者だからだ。治療の結果今ではぴんぴんしているが、親が乳癌だと子供もリスクが高くなるからと、検診だけは怠らないよう言い聞かされてきた。私はアンジーのニュースが報じられるちょうど前日、今週末の一時帰国に合わせて東京の婦人科に検診予約を入れたところだった。

 詳しくは今週発売のNewsweek日本版5月28日号をお読みいただければありがたいが、アンジーが予防的手術に踏み切ったのは、BRCA1という遺伝子に変異が見つかり乳癌の生涯発症リスクが87%と判断されたから。乳癌・卵巣癌抑制遺伝子であるBRCA1もしくはBRCA2に変異がある人は、アメリカ人全体の1%以下と決して多くはない。とはいえ、アメリカは8人に1人が乳癌の「乳癌大国」だ(日本は16人に1人)。乳癌はいつか自分の身にも降りかかるかもしれない身近な病気として認識されているため、アンジーの告白を受けて病院には遺伝子検査に関する問い合わせが殺到しているという。

 ならば自分も、一刻も早く遺伝子検査を受けて予防すべきなのか――原稿を書きながら、この問いが頭から離れなくなった。

 とはいえ冷静になって調べてみると、この遺伝子検査は誰もが今すぐ受けたほうがいいという類のものではないようだ。米国立癌研究所(NCI)が検査すべきと薦めているのは、まずは乳癌や卵巣癌と診断された本人から。BRCA1/2遺伝子変異をもつ患者は乳癌再発リスクや卵巣癌を発症するリスクが高いことが分かっているし、患者本人に変異が認められれば家族にも検査の必要性が浮上する。

 NCIは本人以外の検査対象者として、親・娘・姉妹に乳癌患者が2人以上いてそのうち1人以上が50歳 以下で発症している人、親・娘・姉妹・祖母・叔母に3人以上の乳癌患者がいる人、親・娘・姉妹のうち1人以上が両乳房に乳癌を発症した人、親・娘・姉妹・ 祖母・叔母に2人以上の卵巣癌患者がいる人など、家族に特筆すべき乳癌・卵巣癌歴がある人を挙げている。

 これまでにこの遺伝子検査を受けた人は100万人近くに上るが、アメリカの乳癌患者のうちBRCA1/2遺伝子変異が認められた人は5~10%に過ぎない。それでも変異が見つかった場合には生涯乳癌発症リスクが約60%と判断されるため(一部の研究は最高87%としていて、アンジーが決断の根拠にしたのはこの数字)、アメリカでは約36%が予防的手術に踏み切るという。

 翻って、日本の場合はどうか。BRCA1/2変異の確率は人種によって変わってくるが、08年に栃木県立がんセンターの菅野康吉医師らが発表した研究報告によれば、日本の乳癌患者のBRCA1/2変異率はアメリカと同程度かそれ以上だと分かっている。ただし日本における遺伝子検査はアメリカに比べてまだまだ一般的とは言いがたく、データ自体が圧倒的に少ない。

 日本でこの遺伝子検査がそこまで浸透してこなかった理由としては、1つには検査によるメリットの低さが挙げられるだろう。虎の門病院乳腺内分泌外科の田村宜子医師によれば、病院で提示される検査料金は20~30万円で、乳癌患者を家族にもつ人だけでなく乳癌患者本人が希望する場合でも保険でカバーされない。さらに、アメリカではBRCA1/2に変異があれば予防的乳房切除手術と再建手術は保険適用になる場合が多いが、日本ではどちらも保険適用外だという(乳癌患者の再建手術も適用外)。

 田村医師によれば、混合診療が認められていない現在、例えば右乳房に癌が見つかった場合の右乳房の手術は保険適用内になるが、遺伝子変異があるため左乳房も予防的に手術したいという場合は右と左の両方が保険適用外となってしまう。両側の予防的手術と再建手術にかかる費用は約150~200万円。予防的手術という「選択肢」が現実的でない以上それ以前の遺伝子検査を受けるメリットが限られてきてしまうため、カウンセリングの結果検査を希望する人は多くなかったという。

■遺伝子診断がもたらすジレンマ

  だが「アンジー効果」を受けて、日本でも今後こうした予防的手術を視野に入れた遺伝子検査はどんどん普及していくだろう。すでに検査に関する問い合わせが増えているというが、自分の場合を考えてみると手術がどうこう以前に遺伝子検査へのハードルさえ下がりきっていないように思える。

 遺伝子検査の結果、もし変異が見つかった場合はどうするのか。予防的手術を希望するのか、検診を年2回に増やして早期発見を目指すのか、それともホルモン療法を行うのか。検査によって同時に分かってしまう卵巣癌のリスクはどうするのか。田村医師によれば、両側卵巣摘出は女性ホルモンの低下によるデメリット(更年期障害や骨粗鬆症など)が出てくるため、予防的手術は乳房よりもハードルが高いという。両側卵巣を摘出すれば妊娠出産は難しくなる。

  さらに、遺伝子検査を受けるかどうか、その結果をどう受け止めるかは自分1人の問題ではない。私は昨年結婚したのでこれから遺伝子変異が見つかったとしても夫には添い遂げてもらうしかないが、これが結婚前だったらそもそも検査を受けるのか、受けて変異があったら未来の夫(やその家族)にどう告げるのか、相当悩んだはずだ。BRCA変異は子供にも50%の確率で受け継がれるため、家族の1人(例えば母)に変異が見つかればその可能性は家族全員に浮上してくる。妹はどうするのか。検査を受けたがるだろうか。

 私に遺伝子変異が見つかったら、今後出産した場合に自分の子供にも遺伝する可能性が50%という不安も押し寄せる。アメリカには着床前遺伝子診断によって変異のあるBRCA遺伝子をはじいて出産する方法もあるというから、「もしも」の場合の悩みは尽きない。ちなみにBRCA変異は男性にも50%の確率で遺伝するため、親が変異をもつ男性の場合、その男性とその子供にも遺伝する可能性がある(男性本人が発症するケースもある)。

  こうした遺伝情報が差別につながらないかという懸念もある。田村医師が指摘するように、遺伝子異常という究極の個人情報が就職や結婚、医療保険上など社会的にどう受け止められていくかというのは遺伝子診断についての医学的議論とセットで考えていくべき問題だろう。本誌4月16日号『禁断の新医療 遺伝子診断』では、アメリカでは今や99ドルの検査キットで様々な遺伝子情報が手に入る状況を紹介している。だが一方、アメリカでは08年に遺伝子情報差別禁止法が制定され、遺伝情報に基づいて医療保険の加入条件や保険料に差をつけたり、採用や昇進で不利な扱いをすることを禁じていると いう点も見落とせない。日本でも今後さまざまな遺伝子診断が身近になるに連れて、(就職や保険は別にしても)結婚する際に年収のごとく遺伝情報の開示を求める人が出てくるかもしれない。

 もちろん、生きるための選択肢が増えるという意味で遺伝子診断がもたらす恩恵は計り知れない。アンジーのように家族の病歴から遺伝子変異が強く疑われる場合は、いつ発症するかという恐怖に怯えるよりも検査ではっきりさせた上で具体的な選択肢を考えていきたいと思うのも当然だろう。

 『禁断の新医療』で遺伝学者リッキー・ルイスが言うように、「遺伝情報は一度知ったら元には戻れない『パンドラの箱』」だ。アンジーはその箱を自らの意思で開け、乳癌発症リスクが87% という結果を知った以上は予防的手術でリスクを5%以下に下げる道を選択した。アンジーの強くて前向きな行動が、不安を抱える女性たちの背中を大きく押したことは間違いない。

 さて、自分はどうするのか。私にも、アンジーのような強さがあるのだろうか。

 妹に意見を聞いたところ、彼女はそもそも遺伝子診断というものに大反対だという答え。「乳癌になったら、ああ私、お母さんの子供だったんだなって思う。そして闘う」とあっけらかんと言って笑った。遺伝情報に何かを賭けるのではなく、病気になったときにその現実を受け入れて闘う――そう覚悟を決めるのも、1つの強さなのかもしれない。

――編集部・小暮聡子(ニューヨーク)


*BRCA1/2遺伝子検査を受けるべきか迷っている人は、まずは医療機関で「遺伝カウンセリング」を受け、相談してみてはいかがだろう。 

遺伝カウンセリングを提供している施設一覧
どんな人に検査が推奨されるかのチェックリスト

出典:日本の遺伝子検査会社ファルコ


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ニューズウィーク日本版は1986年に創刊。世界情勢からビジネス、カルチャーまで、日本メディアにはないワールドワイドな視点でニュースを読み解きます。編集部ブログでは編集部員の声をお届けします。

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