「日本人と挨拶」を文化論的に考える

欧米やアラブの社会では挨拶は人々との距離を縮めるための手段だが…… georgeclerk/iStock.
<親しいながらも距離を保つ、日本人の独特な人との付き合い方>
文化摩擦と呼ばれる現象の多くは、互いの文化特有の物の考え方や見方をめぐる独断や理解不足などが原因とされる。日本を訪れた外国人に日本人のイメージを尋ねると、優しい、親切、真面目といったプラスのイメージの他、人見知りとか、冷たいというマイナスのイメージも聞かれる。なぜこのような両極端なイメージがあるのだろうか。自分自身としては、日本滞在23年が経つ今も、日本人の行動様式をめぐっては多くの疑問符を付けたくなることがあり、その独特で、ときに曖昧な特徴や個性に困惑させられることもある。
その一つが、日本人の挨拶に対する考え方である。日本人は何のために挨拶をしているのか。また挨拶をどのように捉えているのか。
今も昔も、どんな言語においても、人と人の挨拶行動は人間社会に普遍的に見られる現象である。「挨拶」は軽視できない、重要な「文化論」の一つとなり、人をつなげる大きな力となる。日本語の「挨拶」という言葉も、コミュニケーションの核心的な意味を秘めている。そもそも「挨」「拶」の両字ともが「近づく」という意味で、挨拶行動の本質を言い表している。しかしよく考えてみると、「お元気ですか」、「はい元気です、あなたはいかがですか?」、「ええ、元気です」などというような挨拶が日本人の間で日常的かつ頻繁に交わされることはあまりない。よほど長い間会わなかった人たちが再会したときなどに使うことが普通である。
私は朝早くに、都内の自宅から2時間半かけて職場へと出かけていく。エジプト出身のアラブ人である私にとっては日常のことだが、私は笑顔で近所の日本人と挨拶する。みなさんにとって、このような他人との積極的な交流は普通ではないことかもしれないが、私にとってはごく当たり前の自然な行動である。もちろん挨拶を周りの全ての人にすることは不可能だ。また、ここは人々が互いに気軽に声をかけやすい風土で知られるニューヨークやロンドンとも違う。つまり、周囲とのやりとりは朝夕の挨拶以上のものはなく、その挨拶でさえ使い方に特別な尺度がある。日本で他者との関係構築に最も重要なものと認識すべきは、他者との社会的距離を保つことであり、職場でも生活圏でも家庭内でも、その距離を越えたり取り除こうとしたりしてはならないということだ。
欧米やアラブの社会では、挨拶は同じ社会に暮らす人々との距離を縮めるための手段だが、日本ではこれと異なるルールが社会的行動の力学を支配している。つまり、距離を保つことが、同じ社会の人々との関係においてバランスを保つために必要であり、双方に調和と平和を保証するものである。
他人への歓迎や関心を示すための大げさな笑顔や飾り立てた言葉は、日本的思考では、それが求められる幾つかの場面を除けば、さほど重要ではない。最も重要なのは、「親しき中にも礼儀あり」と言われるように、繋がりや挨拶の程度を、あなたと他者を分ける社会的関係や距離の範疇に保つことである。
そのため私は、周囲との交流を望むエジプト出身のアラブ人として、ときには日本との架け橋になるべく努める一方、ときには他者と適切な関係を維持するために距離感を保つようにしながら、他者との付き合い方を制御できるようにならねばならない。
また、「言わなくても分かる」などのように、言葉によらない「察し」が大切だと考える文化的特色を背景にした日本語は本質的に長話には向かないから、どの程度言葉を発するかを常に考えなければならない。これは、社会的関係や他者との交流に必要な距離を保つためである。