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「弱者の中の弱者」の場所:アレッポ出身の女性に話を聞く

2016年12月26日(月)17時50分
いとうせいこう

アレッポのアミナ

 やがて出口の方まで歩いたアダムとイハブは、二人でこそこそと話した。どうやらもう一人、俺たちに紹介したい人物がいるのだが、果たしてインタビューに応じてくれるかどうか、あるいはインタビューを申し込むこと自体が相手を傷つけるかどうか、きわめて繊細な判断が必要だという会話が漏れ聞こえてきた。

 そして俺たちはすでに、その討論の対象となる人物を視界にとらえていた。

 少し遠くに柵のようなものがあり、それが難民キャンプの中の簡易なカフェになっていた。奥のテーブルの上にたくさんの使い捨てカップを置き、援助団体の若い男女が立ち働いているのが見えた。

 その中に、一人だけ黒い上着に黒いパンツをはいた女性がいた。頭には灰色の布を巻いていて、中東の国から来た難民のようだった。彼女はたくさんのカップを前にして、ひたすらに紅茶を淹れていた。

 その人へのインタビューを、アダムが最終的に決めた。彼は無言でついて来るように指示し、カフェへと近づいた。俺たちもそうしながら、重大な事実を知らされた。

 アミナ・ラマダンさんというシリアの、それもあの空爆が続くアレッポ出身の女性は、その年の3月20日、つまりわずか4ヶ月前、トルコからギリシャへと渡ってくるゴムボートの中で、車椅子に乗っていた夫を亡くしていた

 柵の向こうにいる彼女の横まで不用意に歩いて行ってしまった俺は、実際には聞くべきことを持っていなかった。アミナさんは悲劇から立ち直ろうとしている。彼女が忘れたい事実を、俺などが蒸し返していいものだろうか。

 だが、イハブに声をかけられ、なぜ多国籍の俺たちが彼女に近づいたかを聞いたアミナさんは、むしろ大切なことをどう正確に伝えるべきか慎重に考える様子を見せ、それから深くうなずいてインタビューに応じてくれた。人生の苦難が彼女の顔に皺を刻んでいたが、きっと俺よりずっと若いのだろうと思った。

 ここでも質問は谷口さんがした。俺は黙って彼女の顔をじっと見ているばかりだった。どうしても俺はジャーナリストになれなかった。申し訳ないことだった。

 「アミナさん、答えにくいことをうかがってしまいます。このキャンプに来るまでの道のりはどんなものだったんでしょう」

 すると、布の下にある痩せて日に焼けたアミナさんの表情が一瞬ほどけた。なぜ笑顔のようになったのかと驚く間もなく、彼女は谷口さんに向かってかきくどくように言った。


「ベリベリベリベリベリー・ディフィカルト」

 本当に大変だったとアミナさんは言い、そのあとでどのように国からたどり着いたかを、今度はイハブに自国語でしゃべった。

 幾つもの国を越境していた。夫が病によって車椅子に乗る身だったから、移動には一層倍の苦労が要った。シリアからレバノンへは徒歩、そこからトルコまでは飛行機も使ったそうだからずいぶん財産を使ったことだろう。

 そして、答えは当然、最後のトルコからギリシャへのゴムボートに触れざるを得なくなった。

 3回、渡航にチャレンジにして失敗したとアミナさんは言った。それでもトルコ側で粘っていると、ゴムボートに乗れることになった。回りはほとんど女性だったと言う。仲介業者は銃を持っていてとても恐ろしかったそうだから、彼女たちはだまされていたのだと思う。

 明らかに乗り過ぎだった、とアミナさんは谷口さんに言った。俺たち取材者の中で唯一の女性へと、アミナさんは伝承を授けるように目を向けてしゃべっていた。イハブはその脇で素早い通訳を続けた。

 海の上でモーターが故障した。もともと乗り過ぎだった重量オーバーにより、浸水が始まった。彼女自身何が起きているのかわからないまま、それでもボートは奇跡的にギリシャに着いた。

 けれど、舟の底で夫は既に亡くなっていた。心臓発作だったのかもしれないし、すし詰めの中で窒息死したのかもしれない、あるいは浸水してきた海水を飲んだのかもしれない、とアミナさんは言った。

 よくぞそんなつらい体験を話してくれるものだと俺は途中から頭を下げたい思いだった。話し続けるアミナさんの横顔からは荘厳さがにじみ輝いていた。目は透明度の高い海か井戸のように深いところまで澄んでいた。水が湛えられた底に、薄茶色の砂地が乱れもなくあった。

 「私は夫を助けることが出来ませんでした」

 そう言ったあと、深い沈黙がキャンプに訪れた。アミナさんは顔を下には向けなかった。彼女は谷口さんをじっと見ていた。あなたにもわかるでしょう?と問うているように思ったし、だからといって同情を求めるというのではなく、人生の中に起きる危機を共有することで一緒に未来への道を歩み出そうとするかのように感じられた。

 谷口さんは一度礼をするように頭を下げてから言った。

 「将来は、アミナさんこれからどうなさろうとお考えですか。もちろん今そんなことまでは思いもよらないかもしれませんが」

 すると、翻訳を聞いたアミナさんはひとつ深いため息をついてから言った。

 「学んで働いて......」

 そして彼女は振り向き、背後のボランティアたちを見てから続けた。


「人のためになりたい」

 そのあと一瞬、ほんの一瞬だけ、アミナさんの目の底にある砂地がその奥からの水の噴出のようなものでだろうか、揺れてかき乱された。なぜかわからなかった。

 アミナさんは続けて幾つかの言葉を吐き出した。文化的仲介者のイハブは彼女の言葉をしばらく訳さずに、自分の心の中で十分に受け止めてからこう話した。

 「人のために働くことは、旦那さんと二人で決めていたことだそうです」

 彼女の目の奥に乱れがあった理由を知った俺は、今度は自分の目の奥から噴き上がってくるものがあるのを感じた。

 アミナさんが紅茶を淹れているのは、その"人のためになる"ことのひとつだった。

 彼女は毎日、昼と夕方に大量の紅茶を淹れ、キャンプの難民たちに配っていた。それは「今私に出来ることをしたい」という訴えによるものだった。その作業の途中に俺たちは取材を申し込んでいたのだった。

 つまり、アミナさんが自分の苦しみを忘れるようにして一心に働いている時間に。

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