【べらぼう解説】大田南畝が蔦重を招いた「連」とは? 江戸の出版ビジネスの要となった文化人サロン

『吉原大通会(よしわらだいつうえ)』恋川春町作・画 1784(天明4)年 国立国会図書館蔵/朋誠堂喜三二を当て込んだ主人公のもとに当時の狂歌名人が集まった場面。画面左下に、 蔦屋重三郎こと蔦唐丸が見える。全員に狂言(芝居)の執筆を依頼している。
<蔦重の仕事は天才が集うサロンから生まれた。蔦重が本の作者と繋がりを求め出入りした、江戸きっての文化人が集う「連」について、江戸文化の専門家、田中優子氏にうかがった>
蔦屋重三郎が活躍した江戸では、大田南畝や明誠堂喜三二らを筆頭にさまざまな文化人・学者たちが集う「連」のなかで、無数の新しい文化・芸術が生み出されていった。「連」とは、まさにサロンであり、ネットワークである。
狂歌、洒落本から黄表紙、絵画・浮世絵、落語、本草学、医学とあらゆるジャンルの学芸が「連」から誕生したのだ。蔦屋重三郎の版元としての仕事もまた、こうした「連」なくしてはあり得なかった。
この「連」というネットワークに注目し、江戸の文化のあり方を論じてきた江戸文化研究者の田中優子氏に、蔦屋重三郎の仕事と「連」の関わりについて、解説いただいた。
本記事は書籍『Pen Books 蔦屋重三郎とその時代。』(CEメディアハウス)から抜粋したものです。
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人のネットワークが生み出す蔦重の仕事
蔦屋重三郎のもとには、吉原大門で店を始めた頃から多くの文化人たちが出入りしていたと考えられます。吉原のタウンガイドである「吉原細見」は、鱗形屋という版元が発行していたのですが、蔦重はそのキャリアの初期に、その鱗形屋の改め・卸を務めました。要は廓内の情報を取りまとめて最新のデータを提供するような立場です。そのような手伝いをしながら、吉原細見の『細見嗚呼御江戸(さいけんああおえど)』を手がけました。版元こそ鱗形屋ですが、奥付には蔦屋重三郎の名前が見えます。この細見には平賀源内が序文を寄せていますから、既にこの頃から、さまざまな文化人や学者との付き合いがあったのでしょう。
この平賀源内が見出したのが、蔦重とも関係の深い、天明狂歌の中心人物となる大田南畝です。また、南畝は、蔦重とともに多くの戯作本を作った山東京伝を絶賛し、それがきっかけで京伝は大きく注目されることとなりました。
このように、さまざまな文化人・学者たちのネットワークによって、江戸の文化が作られていったのです。
鱗形屋自体100年続いた老舗の江戸の本屋でしたが、経営不振に陥り出版界から撤退していくにつれて、勢いを増してきたのが蔦重だったのです。作者の朋誠堂喜三二と恋川春町ら、先行する鱗形屋で活躍していた作者たちを受け継ぎ、やがて江戸の出版界をリードする存在へとのし上がっていきます。つまり、吉原時代から培われていた人と人とのネットワークが、蔦重の土台となって、彼自身の出版業が始まるのです。