最新記事

BOOKS

『悪童日記』訳者・堀茂樹と「翻訳」の世界をのぞく──外国語に接することは「寛容の学校」

2020年2月4日(火)18時05分
Torus(トーラス)by ABEJA

Torus_hori3.jpg

堀:心底、驚嘆しました。固有名詞はいっさい登場しないし、内面描写もまったくない。構成も文体も間違いなくオリジナルでした。

でも何よりも感心したのは、そのラディカルさ。見せかけの、噓っぱちのラディカルさではない、本物のラディカルさです。これほどナルシシズムから遠い、徹底的に抑制された表現の小説があるだろうか、と思いました。

それから朝までが長かった(笑)。パリの店は日曜日は休むのが普通ですが、アスファルト書店は日曜も午前中だけは営業しているのを知っていました。

シャッターが開くのを待ち構え、開店と同時に飛び込んで『ふたりの証拠』も買い、やはりその日のうちに読み終えました。

2作目はもっと強烈でした。このアゴタ・クリストフという人は紛れもなく本物だな、と確信しました。


おばあちゃんは、ぼくらをこう呼ぶ。「牝犬の子!」人びとは、ぼくらをこう呼ぶ。「〈魔女〉の子!淫売の子!」

罵詈雑言に、思いやりのない言葉に、慣れてしまいたい。ぼくらは台所で、テーブルを挟んで向かい合わせに席に着き、真っ向うから睨み合って、だんだんと惨さを増す言葉を浴びせ合う。(中略)言葉がもう頭に喰い込まなくなるまで、耳にさえ入らなくなるまで続ける。

しかし、以前に聞いて、記憶に残っている言葉もある。
おかあさんは、ぼくらに言ったものだ。
「私の愛しい子!最愛の子!私の秘蔵っ子!私の大切な、可愛い赤ちゃん!」

これらの言葉を思い出すと、ぼくらの目に涙があふれる。
これらの言葉を、ぼくらは忘れなくてはならない。なぜなら、今では誰一人、同じたぐいの言葉をかけてはくれないし、それに、これらの言葉は切なすぎて、この先、とうてい胸に秘めてはいけないからだ。

そこでぼくらは、また別のやり方で練習を再開する。
ぼくらは言う。
「私の愛しい子!最愛の子!大好きよ......けっして離れないわ......かけがえのない私の子......永遠に......私の人生のすべて......」

いくども繰り返されて、言葉は少しずつ意味を失い、言葉のもたらす痛みも和らぐ。
(アゴタ・クリストフ『悪童日記』「精神を鍛える」より)

Torus_hori4.jpg

この本が日本に紹介されているのかどうか気になったので、フランスの版元に電話してみると、日本ではまだ翻訳権が取られていないとのことでした。それなら自分がやってみよう、と。

出版できる当てはまったくなし。それでもやりたくて、場末のカフェで毎日、一夏かけて一気に訳しました。ワープロも原稿用紙もないので、ノートに縦書き用のマス目を引いて書き込みながら。

翻訳を見下していた自分が翻訳を根本から考えた

──それまでに翻訳の経験はあったのですか?

堀:当時日本は日の出の勢いの「経済大国」でしたからね、ビジネス方面でフランス語と日本語のあいだの仲介をする仕事はちょいちょいありました。通訳の方が多かったですが、いわゆる実務翻訳もアルバイトで少しやってました。でも文学作品を訳すのは『悪童日記』が初めてでした。

私がパリに行ったのは78年で、19世紀前半の大作家バルザックを研究するためでした。「研究者たる者、翻訳などという二級の仕事に手を出すべきではない」という、いまから思えば実に浅はかな考えにとらわれていました。

政府給費留学生試験の成績だけは抜きん出ていたので、自分はできるなどと勘違いして、翻訳を見下していたわけです。

それでいて、フランスでの強烈なカルチャー・ショックで頭がクラクラして大学にあまり行かなくなり、街で出会ったフランス人らとの付き合いにのめり込み、アルバイトで食いつなぐという、まさにバルザックの小説に出てくるパリの巷の漂流者のようになっていた(笑)。そんなころ、アゴタ・クリストフの小説に遭遇したのです。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

訪日外国人、16.9%増で8月として初の300万人

ビジネス

英CPI、8月は前年比+3.8% 主要先進国で最高

ビジネス

日産幹部、変動費削減目標達成に意欲 中国企業のコス

ワールド

インドの鉄鋼輸出、EUの炭素税が打撃に、米関税の影
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:世界が尊敬する日本の小説36
特集:世界が尊敬する日本の小説36
2025年9月16日/2025年9月23日号(9/ 9発売)

優れた翻訳を味方に人気と評価が急上昇中。21世紀に起きた世界文学の大変化とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェイン・ジョンソンの、あまりの「激やせぶり」にネット騒然
  • 2
    「日本を見習え!」米セブンイレブンが刷新を発表、日本では定番商品「天国のようなアレ」を販売へ
  • 3
    中国は「アメリカなしでも繁栄できる」と豪語するが...最新経済統計が示す、中国の「虚勢」の実態
  • 4
    ケージを掃除中の飼い主にジャーマンシェパードがま…
  • 5
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 6
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる…
  • 7
    腹斜筋が「発火する」自重トレーニングとは?...硬く…
  • 8
    【クイズ】世界で最も「リラックスできる都市」が発…
  • 9
    「なにこれ...」数カ月ぶりに帰宅した女性、本棚に出…
  • 10
    「この歩き方はおかしい?」幼い娘の様子に違和感...…
  • 1
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影...目覚めた時の「信じがたい光景」に驚きの声
  • 2
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 3
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれば当然」の理由...再開発ブーム終焉で起きること
  • 4
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 5
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる…
  • 6
    科学が解き明かす「長寿の謎」...100歳まで生きる人…
  • 7
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
  • 8
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 9
    埼玉県川口市で取材した『おどろきの「クルド人問題…
  • 10
    観光客によるヒグマへの餌付けで凶暴化...74歳女性が…
  • 1
    「4針ですかね、縫いました」日本の若者を食い物にする「豪ワーホリのリアル」...アジア出身者を意図的にターゲットに
  • 2
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 3
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果物泥棒」と疑われた女性が無実を証明した「証拠映像」が話題に
  • 4
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 5
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 6
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
  • 7
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 8
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれ…
  • 9
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 10
    プール後の20代女性の素肌に「無数の発疹」...ネット…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中