最新記事

「胎児殺しの悪魔」と呼ばれて

編集者が選ぶ2009ベスト記事

ブッシュ隠居生活ルポから
タリバン独白まで超厳選

2009.12.15

ニューストピックス

「胎児殺しの悪魔」と呼ばれて

「命を脅かされても人工妊娠中絶手術を行い続ける一医師の信念と行動は、とても興味深く、読み応え充分」(本誌・川崎寿子)

2009年12月15日(火)12時05分
セーラ・クリフ

「合法的な人工中絶を支持するアメリカ人は国民の約半分といわれるが、反対派は脅迫や暴力、殺人を犯してでも手術を行う医師を攻撃する。『撃たれる確率が91%から89%に減っても大差ない』と言い切る産科医の信念に、自由の国アメリカの矛盾を見た」(本誌・山田敏弘)

「丹念な長期取材からしか生まれない圧倒的なリアリティーと、建前を超越した視点に心を動かされました」(本誌・佐伯直美)


命を脅かされながらも人工妊娠中絶の手術を続けるリロイ・カーハート医師の素顔

 09年5月、日曜日の午前10時過ぎ。ネブラスカ州オマハの近くにあるクリニックの医師リロイ・カーハートの携帯電話が鳴った。しかし人工妊娠中絶の手術の最中で出られなかった。

 カーハートが手術後に携帯電話をチェックすると、電話をかけてきたのは、カンザス州ウィチタにいる医師仲間ジョージ・ティラーのクリニックの看護師長だった。日曜日の午前中に連絡が入るとは珍しい。患者についての相談か緊急事態だろうと思った。カーハートが電話をかけると、看護師長がすすり泣きながら言った。「ジョージが死んだの」

 ティラーは後期中絶を手掛ける産婦人科医師。その彼が教会で銃撃されて死亡したという。カーハートは翌日、車で5時間かけてウィチタに行くことになっていた。彼は交代でティラーを手伝う3人の医師の1人で、5年前から定期的に通っていた。

 カーハートはティラーの家族に会って、クリニックの今後について相談しなければ、と思った。でもすぐに出掛けるわけにはいかない。クリニックの待合室では多くの女性が順番を待っている。「彼の死を悲しむ暇はなかった」とカーハートは言う。その日の予約リストには10人以上の名前があった。カーハートは次の中絶手術に取り掛かった。

 カーハートは自分のことも殺したいと思っている者がいるのを承知している。ティラー殺害の数日後の夜遅く、カーハートの娘は両親が殺されたという事実無根の連絡を受けた。クリニックにも不審な手紙が届き、白い粉が同封されていたこともある。カーハートが中絶手術を行うようになった80年代後半以降、こんな嫌がらせは後を絶たない。

 ネブラスカ州では91年に、中絶を希望する女性が未成年の場合は医師が親に知らせることを義務付ける法案が議会を通過。その日にカーハートの農場で火事が起き、馬17頭、犬と猫が1匹ずつ焼死した(出火原因は不明)。火事の翌日、中絶医は殺されて当然だという手紙が届いた。

 クリニック前の歩道は家畜の糞尿の肥料で汚され続けている。脅迫、暴力、親友の殺害----だがカーハートはくじけない。今もガレージの上には「ネブラスカ妊娠中絶・避妊クリニック」という大きな看板を掲げている。「(中絶反対派の活動家たちは)私たちに戦争を仕掛けている」と、カーハートは言う。「意見の違いといったレベルを超えている。反撃しなければならない」

軍の外科医から中絶医へ

 中絶手術を行う医師は全米に約1800人いる。カーハートが標的にされるのは後期中絶を手掛ける数少ない医師だからだ。米疾病対策センターによると、妊娠中期後半を過ぎてからの中絶は全体の1・3%にすぎない。

 アメリカで激しい議論の的になっているのがこの時期の中絶だ。09年5月の世論調査によると、回答者の68%が妊娠初期の中絶の権利を支持。しかし中絶の時期が遅くなるほど支持者は減っていく。胎児に母体の外でも生きていく力が備わっている可能性のある妊娠24週前後の中絶ともなると、激しい反対にさらされる。子宮外でも生きられるまで胎児が成長しているのに中絶がやむを得ないとされるのは、どのような場合か。誰がそれを決めるのか。胎児に重大な障害が発見されたら中絶すべきなのか。胎児が母体の外で生きられる可能性が50%のときは? 30%なら?

 カーハートは患者と接しながら、こうした問題と日々向き合っている。彼はティラーのクリニックで妊娠後期に入ったレイプ被害者を診察したことがある。その女性によると、胎動を感じるたびにレイプの恐怖がよみがえるという。彼女は3度も自殺を試みた。カーハートは手術を行うことに同意。「自殺したいとまで追い詰められているのなら、本人のために中絶を考えなければならない」

 カーハートはティラーが殺害された日の前日、妊娠7カ月の女性を診察した。子供を産まなければならないとしたらどうするかと質問すると、「自殺するとは言わず、養子に出すと言った」ため、手術を断った。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

米最高裁、「フードスタンプ」全額支給命令を一時差し

ワールド

アングル:国連気候会議30年、地球温暖化対策は道半

ワールド

ポートランド州兵派遣は違法、米連邦地裁が判断 政権

ワールド

米空港で最大20%減便も、続く政府閉鎖に運輸長官が
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:高市早苗研究
特集:高市早苗研究
2025年11月 4日/2025年11月11日号(10/28発売)

課題だらけの日本の政治・経済・外交を初の女性首相はこう変える

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 2
    「遺体は原型をとどめていなかった」 韓国に憧れた2人の若者...最悪の勘違いと、残酷すぎた結末
  • 3
    「路上でセクハラ」...メキシコ・シェインバウム大統領にキスを迫る男性を捉えた「衝撃映像」に広がる波紋
  • 4
    「座席に体が収まらない...」飛行機で嘆く「身長216c…
  • 5
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 6
    クマと遭遇したら何をすべきか――北海道80年の記録が…
  • 7
    『プレデター: バッドランド』は良作?駄作?...批評…
  • 8
    【銘柄】元・東芝のキオクシアHD...生成AIで急上昇し…
  • 9
    なぜユダヤ系住民の約半数まで、マムダニ氏を支持し…
  • 10
    長時間フライトでこれは地獄...前に座る女性の「あり…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎の存在」がSNSで話題に、その正体とは?
  • 3
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 4
    9歳女児が行方不明...失踪直前、防犯カメラに映った…
  • 5
    「日本のあの観光地」が世界2位...エクスペディア「…
  • 6
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読…
  • 7
    だまされやすい詐欺メールTOP3を専門家が解説
  • 8
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」は…
  • 9
    虹に「極限まで近づく」とどう見える?...小型機パイ…
  • 10
    「遺体は原型をとどめていなかった」 韓国に憧れた2…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    英国で「パブ離れ」が深刻化、閉店ペースが加速...苦肉の策は「日本では当たり前」の方式だった
  • 3
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」はどこ?
  • 4
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 5
    1000人以上の女性と関係...英アンドルー王子、「称号…
  • 6
    かばんの中身を見れば一発でわかる!「認知症になり…
  • 7
    悲しみで8年間「羽をむしり続けた」オウム...新たな…
  • 8
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読…
  • 9
    【クイズ】日本でツキノワグマの出没件数が「最も多…
  • 10
    お腹の脂肪を減らす「8つのヒント」とは?...食事以…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中