コラム

「自分たちは欧米研究者の下請けか?」自立を目指すアラブ人研究者たち

2020年10月15日(木)18時00分

中東研究に限らず、途上国に関する研究の大半が、その起源を植民地研究にたどることができる。イギリスが中東地域に植民地進出していく過程で、現地の言葉ができる研究者を起用する必要があったので、考古学者を軍や植民地統治機関に採用したことは、有名な話だ。

アラビアのロレンスと呼び称されるT.E.ロレンスはシリアでヒッタイト遺跡の発掘に没頭していた考古学者だし、イラクで女帝と呼ばれたガートルード・ベルもまた、ユーフラテス川流域の考古学調査に携わるとともに、登山家、冒険家でもあった。第一次大戦後、イギリスの対アラブ政策に幻滅したロレンスは、その後バイク事故で命を失うが、その意味では植民地政策に翻弄された研究者の哀れな末路といえるかもしれない。

一方で、ロレンス以上に当時の政府の対アラブ政策に反発して、国家自体を捨てたイギリス人もいる。有名な二重スパイのキム・フィルビーの父、ハリー・フィルビーだ。英領インド政庁の行政官として湾岸地域で活躍するが、当時メッカのハーシム一族(現在のヨルダン王家)を一貫して推し続けるイギリス本国政府に対して、飛ぶ鳥落とす勢いのサウド家(現在のサウディアラビア王家)のほうが絶対将来性がある、と主張して、対立した。彼に見る眼があったことは、その後歴史を見れば明々白々だが、イギリス政府に見切りをつけたフィルビーは、その後サウド王家の顧問となる。政策に反する声を封殺し、イギリス政府は中東の勝ち馬に乗り損ねた、好例として今に語り継がれる出来事だ。

定量分析がすべて

政策決定者の、学者や現場官僚に対するへたくそな使い方も問題だが、研究動向にも問題がある。最近の政治学は、定量分析が圧倒的な主流となっている。定量分析でなければ学者じゃない、とでもいえるほどだ。この傾向に対して、現地のアラブ人学者たちがかみつく。「定量分析がすべて、とされることで、欧米の若手研究者はつい大量のデータから簡単に導き出せるような、簡単な問題設定しかしなくなる。現地社会の、ニュアンスに富んだ複雑性は、捨象されてしまう」。

さらにそれに呼応して、アメリカ人中東政治研究者がこう反省する。「欧米では、政府や一般世論の中東への関心がテロや戦争、女性差別や石油ばかりに向くことで、中東研究自身が「センセーショナル化」している。そして、センセーショナルな出来事ばかりを扱うことで、メディア的にわかりやすい、「簡単な解答」を求めるだけの研究に堕落してしまっている」。

これは耳の痛い議論だ。まさにちょうど、どこの大学や研究者も、来年の研究費獲得に向けて、申請書づくりに勤しんでいる季節である。そこではどの研究者もつい、いかに自分の研究が、今日本が抱えている課題に直結しているか、社会的ニーズに答えているか、日本の将来にとっていかに重要か、国家の政策に不可欠な研究テーマなのかを、誇張してでも訴える。だが、そのことが「イランの脅威」観を煽り立て、「難民流入による治安の悪化」を前提視する議論を生む。

アメリカが「イラクは大量破壊兵器を持っているから危険だ」と煽るだけ煽って戦争をしかけるも、大量破壊兵器がなかったばかりか、戦後17年にもなってもイラクでは混乱が続き、地域の不安定の根源になってしまった。それでも17年前に、政権の求めるままに「大量破壊兵器はある」という間違った調査結果を出した(出させられた?)研究者や調査員や行政担当官の問題は、正されないままだ。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。
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