コラム

彼女の苦悩は全インド人女性のものだ──『グレート・インディアン・キッチン』

2022年01月20日(木)17時08分

そんな2作品を踏まえてまず注目したいのが、本作にもシャバリマラ・アイヤッパン寺院の巡礼という宗教の要素が絡んでくることだ。この寺院は伝統的に男性の巡礼者だけを受け入れてきたが、2018年に10歳〜50歳の(子供を産める状態にある)女性の参拝を禁じることは憲法違反という最高裁判決が下され、論争や対立が起こり、暴動にも発展した。ジヨー監督は、その事件を巧みにドラマに盛り込んでいる。

舅と夫は巡礼のための潔斎の生活に入り、身を清めてアイヤッパン神の名を唱えつづける。生理になった妻は隔離されるばかりか、穢れた存在として夫から酷い仕打ちを受ける。隔離を解かれると、今度はまた汚水との格闘が始まる。そんな彼女は、最高裁判決をめぐる対立に触発され、やがて強烈な変貌を遂げることになる。

そしてもうひとつ注目したいのが、料理や炊事と権力を結びつけた表現だ。本作では、舅と夫が、食べかすをまとめず、テーブルの上に散らかし放題にして食事を終え、妻がそれを嫌々片づける場面が繰り返し描かれる。ところが、夫は外食ではマナーを守るので、この食べ散らかしが、家庭における男性の権力を確認するための行為のように見えてくる。さらに、邸宅に飾られた夫の一族の古い写真を映し出す映像に、料理をするときの物音が重ねられる表現も印象に残る。それは、何世代にもわたって女性たちが炊事を通して制度に取り込まれてきたことを物語る。

女性を支配してきた家庭の伝統と制度

そんな光景を目にして筆者が思い出すのは、以前にもコラムで取り上げたマラ・センの『インドの女性問題とジェンダー----サティー(寡婦殉死)・ダウリー問題・女児問題』のことだ。その序文では、サティー(寡婦殉死)によって美化される女性像が以下のように綴られている。

oba0801d.jpg

『インドの女性問題とジェンダー----サティー(寡婦殉死)・ダウリー問題・女児問題』マラ・セン 鳥居千代香訳(明石書店、2004年)


「この役割モデルは何世紀にもわたってインドの女性たちの精神を支配してきた。そして、多くの女性たちはあらかじめ定められた人生の義務は夫のために生き、そして死ぬことであり、いつも自分たちの利益より夫の利益を優先するように教え込まれ、『完璧』というレベルにまで達したいと願っている」

本作にもそんな女性が登場する。舅からの連絡で嫁の至らなさを知った彼の妹は、すぐに駆けつけ、伝統主義の権化のような態度で彼女を委縮させる。また、本作の終盤には、巡礼の宗教的伝統を肯定し、「私たちは閉経まで待てる」と書いた横断幕を掲げる女性たちの集団の姿も目に入る。

ジヨー監督は、妻の地獄のような体験を通して、家庭がいかに女性を支配し、伝統や制度を支えているのかを見事に描き出している。

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

イラン、NPT脱退法案を国会で準備中 決定はまだ

ワールド

米上院議員が戦争権限決議案、トランプ氏のイラン軍事

ビジネス

NTTドコモ、 CARTAHDにTOB 親会社の電

ビジネス

パリ航空ショー、一部イスラエル企業に閉鎖命令 イス
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:非婚化する世界
特集:非婚化する世界
2025年6月17日号(6/10発売)

非婚化・少子化の波がアメリカもヨーロッパも襲う。世界の経済や社会福祉、医療はどうなる?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「タンパク質」より「食物繊維」がなぜ重要なのか?...「がん」「栄養」との関係性を管理栄養士が語る
  • 2
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高にかっこいい」とネット絶賛 どんなヘアスタイルに?
  • 3
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波でパニック...中国の輸出規制が直撃する「グローバル自動車産業」
  • 4
    サイコパスの顔ほど「魅力的に見える」?...騙されず…
  • 5
    林原めぐみのブログが「排外主義」と言われてしまう…
  • 6
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
  • 7
    若者に大不評の「あの絵文字」...30代以上にはお馴染…
  • 8
    メーガン妃とキャサリン妃は「2人で泣き崩れていた」…
  • 9
    さらばグレタよ...ガザ支援船の活動家、ガザに辿り着…
  • 10
    ハルキウに「ドローン」「ミサイル」「爆弾」の一斉…
  • 1
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の瞬間...「信じられない行動」にネット驚愕
  • 2
    大阪万博は特に外国人の評判が最悪...「デジタル化未満」の残念ジャパンの見本市だ
  • 3
    「セレブのショーはもう終わり」...環境活動家グレタらが乗ったガザ支援船をイスラエルが拿捕
  • 4
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高に…
  • 5
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波で…
  • 6
    ファスティングをすると、なぜ空腹を感じなくなるの…
  • 7
    今こそ「古典的な」ディズニープリンセスに戻るべき…
  • 8
    右肩の痛みが告げた「ステージ4」からの生還...「生…
  • 9
    アメリカは革命前夜の臨界状態、余剰になった高学歴…
  • 10
    脳も体も若返る! 医師が教える「老後を元気に生きる…
  • 1
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 2
    【定年後の仕事】65歳以上の平均年収ランキング、ワースト2位は清掃員、ではワースト1位は?
  • 3
    日本はもう「ゼロパンダ」でいいんじゃない? 和歌山、上野...中国返還のその先
  • 4
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊…
  • 5
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 6
    大爆発で一瞬にして建物が粉々に...ウクライナ軍「Mi…
  • 7
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 8
    あなたも当てはまる? 顔に表れるサイコパス・ナルシ…
  • 9
    ドローン百機を一度に発射できる中国の世界初「ドロ…
  • 10
    【クイズ】EVの電池にも使われる「コバルト」...世界…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story