コラム

失業と競争のプレッシャー、情け容赦ないフランスの現実

2016年08月10日(水)17時40分

 では、集団を離脱した彼にはどんな現実が待ち受けているのか。スカイプを使った面接では自己PRが足りないと指摘される。自分の模擬面接の映像を見せて、他者の意見を聞くグループコーチングに参加すれば、人格そのものを否定されているのではないかと思いたくなる厳しい意見を次々に浴びせられる。そして、そんな経験を経てスーパーの監視員の職を得ても、万引きする客ばかりか、同僚まで含めた弱者の痛々しい姿を直視しなければならない。彼は個人化に侵された世界で身動きがとれなくなっていく。

集団から離脱したあとの沈黙に込められた意味

 しかし、この映画で最も重要なのは、おそらく主人公の感情の表現だろう。彼は冒頭のハローワークの場面では、感情を露にして抗議するが、集団から離脱したあとは、感情を押し殺し、沈黙を守りつづける。彼が変化するのは経済的に追いつめられているからだが、その沈黙には別な意味が込められているように思える。ちなみに彼は、元同僚たちに身を引くことを伝えたとき、「失業したことで心が裂けちまった」とも語っている。

 社会的な要素と心理的な要素を結びつけるカステルは、労働市場の現状について、「すべての者を労働へと駆り立てるための、脅迫とは言わないまでも、常軌を逸した圧力がある」ことを問題視している。非雇用が改善されないままに、労働がいたずらに称揚されたら、失業者や失業に怯えながら働く人間にどんな心理的影響を及ぼすのか。


「個人の置かれた状況は、自分に責任のない社会的および経済的な力学から派生しているのに、その責任を個人に押しつけて罪を負わせるということになりかねない」

 この映画の主人公の表情や沈黙は、そんなカステルの言葉を想起させる。しかし、圧力によって呪縛された主人公は、最後にある出来事をきっかけに己の感情に目覚め、人間性を取り戻すことになる。

《参照/引用文献》
『社会喪失の時代――プレカリテの社会学』ロベール・カステル 北垣徹訳(明石書店、2015年)

○『ティエリー・トグルドーの憂鬱』
監督:ステファヌ・ブリゼ
公開:8月27日(土)、ヒューマントラストシネマ渋谷ほかロードショー
(C)2015 NORD-OUEST FILMS - ARTE FRANCE CINEMA

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

アップル、関税で今四半期9億ドルコスト増 1─3月

ビジネス

米国株式市場=上昇、ダウ・S&P8連騰 マイクロソ

ビジネス

加藤財務相、為替はベセント財務長官との間で協議 先

ビジネス

物言う株主サード・ポイント、USスチール株保有 日
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
2025年5月 6日/2025年5月13日号(4/30発売)

「ゼロから分かる」各国・地域情勢の超解説と時事英語

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に高く、女性では反対に既婚の方が高い
  • 2
    マリフアナを合法化した末路とは? 「バラ色の未来が来るはずだったのに...」
  • 3
    タイタニック生存者が残した「不気味な手紙」...何が書かれていた?
  • 4
    ウクライナ戦争は終わらない──ロシアを動かす「100年…
  • 5
    インド北部の「虐殺」が全面「核戦争」に発展するか…
  • 6
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新…
  • 7
    悲しみは時間薬だし、幸せは自分次第だから切り替え…
  • 8
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 9
    クルミで「大腸がんリスク」が大幅に下がる可能性...…
  • 10
    朝1杯の「バターコーヒー」が老化を遅らせる...細胞…
  • 1
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 2
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 3
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新研究】
  • 4
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 5
    ロシア国内エラブガの軍事工場にウクライナが「ドロ…
  • 6
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に…
  • 7
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 8
    マリフアナを合法化した末路とは? 「バラ色の未来…
  • 9
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 10
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 3
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 4
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 5
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 6
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 7
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 8
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
  • 9
    クレオパトラの墓をついに発見? 発掘調査を率いた…
  • 10
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story