コラム

ロシアの苛烈な現実を描き、さらに神話の域へと掘り下げる映画

2015年10月16日(金)17時27分

 『裁かれるは善人のみ』の物語は、ふたつの点で神話と深く関わっている。『マザー・ロシア』では、キリスト教化の起源について以下のように説明されている。

「キエフ大公ヴラジーミルは九八八―九八九年に自分の臣民にビザンツのキリスト教を強制した。野心ある取引者=公は、ビザンツ教会と国家の結びつきをひとつの手段、すなわち自らの支配が神聖な裁可によって支持されていることをキエフの農民だけでなく都市のエリートにも納得させる手段として利用した」この映画における市長と司祭の関係には、現代のロシアが反映されているだけではなく、国家と教会の政治的な結びつきが繰り返されてきたものであることを示唆している。そして、もうひとつの重要な点が、「ビザンツのキリスト教は、ローマのカトリシズムに劣らず女性嫌いだった」ということだ。それはもちろん、父権的権力に根を持っているからだ。

 そこで、この映画に登場する後妻のリリアに注目してみると、土地買収をめぐる対立とは異なる世界が浮かび上がってくる。見逃せないのは、映画の冒頭からリリアが本心では町を離れたがっているということだ。それはなぜなのか。夫のコーリャと隣人たちとのやりとりを見れば察しがつく。たとえばコーリャは、警官の地位を笠に着て金も払わずに車の修理を頼んでくる隣人に苛立ちを隠さない。その男のことを「女房をふたり、早死にさせた暴君だ」とまで言う。にもかかわらず、その男が先頭に立って行う"狩り"という憂さ晴らしには他の仲間とともに喜んで参加する。コーリャや隣人たちは率先して教会に通うような人間ではないが、ミソジニー(女性嫌悪)と表裏の関係にある男同士のホモソーシャル(同性間の社会的な絆)な連帯が習慣として染みついている。

 リリアはそんなコミュニティのなかで深い疎外感に苛まれ、追いつめられ、悲劇の連鎖に巻き込まれていく。そして、そんな彼女の運命を際立たせるのが、人間と自然の関係だ。男たちが"狩り"と呼ぶ憂さ晴らしは、銃を撃ちまくるだけで、動物や自然とは結びついていない。舞台となる町では、廃墟となった共同住宅や朽ち果てた廃船が目につき、浜には白骨化したクジラが放置されている。だがこの映画には、岩場に立ち、海と向き合うリリアが、生きたクジラを目にする瞬間がある。それはあまりにも儚い時間ではあるが、壮大な自然と女性が結びついた神話的な世界から見れば、強大な権力もホモソーシャルな連帯も卑小で空虚なものに感じられる。


●『マザー・ロシア――ロシア文化と女性神話』ジョアンナ・ハッブズ
坂内徳明訳(青土社、2000年)

●映画情報
『裁かれるは善人のみ』
監督:アンドレイ・ズビャギンツェフ
公開:2015年10月31日 新宿武蔵野館ほか
2014年カンヌ国際映画祭脚本賞、2015年ゴールデングローブ賞外国語映画賞受賞

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

香港の高層複合住宅で大規模火災、13人死亡 逃げ遅

ビジネス

中国万科の社債急落、政府が債務再編検討を指示と報道

ワールド

ウクライナ和平近いとの判断は時期尚早=ロシア大統領

ビジネス

ドル建て業務展開のユーロ圏銀行、バッファー積み増し
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:ガザの叫びを聞け
特集:ガザの叫びを聞け
2025年12月 2日号(11/26発売)

「天井なき監獄」を生きるパレスチナ自治区ガザの若者たちが世界に向けて発信した10年の記録

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるようになる!筋トレよりもずっと効果的な「たった30秒の体操」〈注目記事〉
  • 2
    【最先端戦闘機】ミラージュ、F16、グリペン、ラファール勢ぞろい ウクライナ空軍は戦闘機の「見本市」状態
  • 3
    【銘柄】イオンの株価が2倍に。かつての優待株はなぜ成長株へ転生できたのか
  • 4
    老後資金は「ためる」より「使う」へ──50代からの後…
  • 5
    7歳の娘の「スマホの検索履歴」で見つかった「衝撃の…
  • 6
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 7
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 8
    マムダニの次は「この男」?...イケメンすぎる「ケネ…
  • 9
    放置されていた、恐竜の「ゲロ」の化石...そこに眠っ…
  • 10
    ミッキーマウスの著作権は切れている...それでも企業…
  • 1
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸送機「C-130」謎の墜落を捉えた「衝撃映像」が拡散
  • 2
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判殺到、そもそも「実写化が早すぎる」との声も
  • 3
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるようになる!筋トレよりもずっと効果的な「たった30秒の体操」〈注目記事〉
  • 4
    ポルノ依存症になるメカニズムが判明! 絶対やって…
  • 5
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 6
    マムダニの次は「この男」?...イケメンすぎる「ケネ…
  • 7
    AIの浸透で「ブルーカラー」の賃金が上がり、「ホワ…
  • 8
    「まじかよ...」母親にヘアカットを頼んだ25歳女性、…
  • 9
    海外の空港でトイレに入った女性が見た、驚きの「ナ…
  • 10
    【銘柄】イオンの株価が2倍に。かつての優待株はなぜ…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 3
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 4
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 5
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 6
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸…
  • 7
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 8
    英国で「パブ離れ」が深刻化、閉店ペースが加速...苦…
  • 9
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読…
  • 10
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story