コラム

「欠点がない」のが欠点 緒方明『いつか読書する日』は熟年男女の究極の物語

2021年10月14日(木)18時25分
『いつか読書する日』

ILLUSTRATION BY NATSUCO MOON FOR NEWSWEEK JAPAN

<市役所に勤める50歳で妻帯者の高梨と、心に秘めた女性・美奈子。2人は高校の同級生でありながら目を合わせない。美奈子はなぜ今も独り身なのか。タイトルの意味は? 全て説明したくなる>

資料に改めて当たり、『いつか読書する日』の公開が2005年であることに驚いた。16年も過ぎたのか。

ただし、本作監督の緒方明との付き合いはもっと古い。初めて会ったのは、(この連載でも以前に取り上げた)1981年公開の『シャッフル』の現場だった。このときの緒方のポジションはチーフ助監督。どちらかといえば物静かな監督である石井岳龍の現場を、緒方はその外見同様にマッチョに仕切っていた。

その後に紆余曲折あって僕はテレビドキュメンタリーの現場に身を置いてディレクターとなり、緒方も助監督として何本かの作品に従事してから、多くのテレビドキュメンタリーを演出する。

ほぼ同じ時期に同じ業界にいたわけだけど、この頃に緒方との接点はほとんどない。なぜならゴールデン枠の番組も演出する緒方は王道だ。対してこっちは、深夜枠をメインのフィールドにする日陰の立場。1998年に僕は『A』を発表して、その2年後に緒方も『独立少年合唱団』で商業映画の監督としてデビューする。

ベルリン国際映画祭に招待されたこの映画がアルフレート・バウアー賞を受賞したことを、僕は新聞などで知った。テレビでも話題になっていた。『A』もこの2年前のベルリン映画祭に正式招待されていたけれど、ほとんど報道されなかった。羨ましい。どうせこっちは日陰さ。

その緒方の2作目である『いつか読書する日』は、市役所の福祉課に勤める50 歳の高梨が主人公だ。妻はいるが心に秘めた女性がいる。名前は美奈子。2人は街でよくすれ違う。でも言葉を交わさない。目も合わせない。互いに黙殺している。

......とここまでストーリーの概要を書きながら気が付いた。この映画は克明にストーリーを記述しないと、紹介したことにならないのだ。

そう書くと、当たり前じゃないかと思う人はいるだろうな。当たり前じゃないよ。細かなストーリーの紹介など不要な(ガラガラガッチャーンみたいな)映画はいくらでもある。でも『いつか読書する日』は違う。なぜ高梨と美奈子は、高校の同級生でありながら目も合わせないのか。高梨の末期癌の妻は何を思って日々を過ごすのか。美奈子はなぜ今も独り身なのか。そもそもタイトルの意味は何か。そしてラストに何が起きるのか。全て説明したくなる。

つまり(緒方とはテレビ時代からの付き合いである)青木研次の脚本の完成度が、とてつもなく高いのだ。良い脚本さえできたなら映画は80%できたようなものだ。これは映画業界でよく耳にする箴言(しんげん)だけど、『いつか読書する日』については、その完成された脚本に、徹底して抑制された緒方の演出が重なり、さらに岸部一徳と田中裕子の熱演も奇跡的に融合している。

プロフィール

森達也

映画監督、作家。明治大学特任教授。主な作品にオウム真理教信者のドキュメンタリー映画『A』や『FAKE』『i−新聞記者ドキュメント−』がある。著書も『A3』『死刑』など多数。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

トランプ氏、グリーンランド特使にルイジアナ州知事を

ビジネス

午前の日経平均は大幅続伸、5万円回復 AI株高が押

ワールド

韓国大統領府、再び青瓦台に 週内に移転完了

ビジネス

仏が次世代空母建造へ、シャルル・ドゴール後継 38
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:教養としてのBL入門
特集:教養としてのBL入門
2025年12月23日号(12/16発売)

実写ドラマのヒットで高まるBL(ボーイズラブ)人気。長きにわたるその歴史と深い背景をひもとく

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「食べ方の新方式」老化を防ぐなら、食前にキャベツよりコンビニで買えるコレ
  • 2
    【過労ルポ】70代の警備員も「日本の日常」...賃金低く、健康不安もあるのに働く高齢者たち
  • 3
    待望の『アバター』3作目は良作?駄作?...人気シリーズが直面した「思いがけない批判」とは?
  • 4
    【衛星画像】南西諸島の日米新軍事拠点 中国の進出…
  • 5
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦…
  • 6
    米空軍、嘉手納基地からロシア極東と朝鮮半島に特殊…
  • 7
    懲役10年も覚悟?「中国BL」の裏にある「検閲との戦…
  • 8
    週に一度のブリッジで腰痛を回避できる...椎間板を蘇…
  • 9
    【銘柄】資生堂が巨額赤字に転落...その要因と今後の…
  • 10
    【実話】学校の管理教育を批判し、生徒のため校則を…
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切り札として「あるもの」に課税
  • 3
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入ともに拡大する「持続可能な」貿易促進へ
  • 4
    【実話】学校の管理教育を批判し、生徒のため校則を…
  • 5
    「最低だ」「ひど過ぎる」...マクドナルドが公開した…
  • 6
    ミトコンドリア刷新で細胞が若返る可能性...老化関連…
  • 7
    自国で好き勝手していた「元独裁者」の哀れすぎる末…
  • 8
    「食べ方の新方式」老化を防ぐなら、食前にキャベツ…
  • 9
    空中でバラバラに...ロシア軍の大型輸送機「An-22」…
  • 10
    身に覚えのない妊娠? 10代の少女、みるみる膨らむお…
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    人口減少が止まらない中国で、政府が少子化対策の切り札として「あるもの」に課税
  • 3
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした「信じられない」光景、海外で大きな話題に
  • 4
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 5
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 6
    「勇気ある選択」をと、IMFも警告...中国、輸出入と…
  • 7
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで…
  • 8
    【衛星画像】南西諸島の日米新軍事拠点 中国の進出…
  • 9
    健康長寿の鍵は「慢性炎症」にある...「免疫の掃除」…
  • 10
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story