コラム

テロを呼びかけるイスラームのニセ宗教権威

2016年03月30日(水)11時34分

 こうしたイスラーム法学者の権威を担保しているのは、クルアーン(コーラン)やハディース(預言者ムハンマドの言行録)に関する知識を基本とするイスラームの知識体系だ。イスラーム法学者たちは、大学であったり、個人であったり、しかるべき権威のもとで、暗記を中心にこの知識体系を習得する。この長く険しい学習課程を経て、免許皆伝となったからこそ、彼らは宗教の権威として、他の人びとに、自分が獲得した知識を伝え、また宗教的な判断を下すことが許される。

 ここで鍵になるのが、オンライン上の情報である。かつて免許皆伝の人だけに特権として独占されていたイスラームの知識体系は、すでに大半がデジタル化され、オンライン上で誰にでも閲覧できるようになっている。つまり、正規のプロセスを修めていなくても、インターネットとアラビア語の知識さえあれば、免許皆伝の学者たちとそれほどかわらない質・量で、イスラームに関する膨大な知識を利用可能になっているのだ。しかも、スマートフォンを使えば、事実上、世界中のほとんどすべての地で、それらを簡単に探したり、読んだりすることができる。

 たとえば、クルアーンのなかで「戦い」を意味する「ジハード」やそれに派生する語がどのように用いられているか、調べる場合を考えてみよう。クルアーンを完全に暗記していれば、すぐにこの語が第2章、第3章、第8章、第9章などに出てくると、スラスラと答えられるだろう。しかし、クルアーンを暗記していないとどうか。インターネット以前の時代では、クルアーンをもっていないと、完全にアウトである。そして、クルアーンをもっていたとしても、索引がなければ、はじめから最後まで読まねばならない。質問されて、即答できなければ、宗教知識人としては失格だろう。

 しかし、インターネット時代であれば、そしてアラビア語の読み書きができれば、インターネットを使って簡単に検索できるし、場合によっては、上手に朗誦までしてくる。ついでにハディースや他のさまざまな古典的な法学者の著作までも検索できるだろう。

もっとも影響力がある権威は「シェイフ・グーグル」?

 つまり、現代においては、きちんとした宗教教育を受けずとも、オンライン上から都合のいいデータを切り貼りするだけで、それなりの宗教判断(らしきもの)ができてしまうのである。今日、イスラーム世界が抱える大きな社会問題のひとつがここにある。イスラームのサイバー空間上には、匿名・非匿名を含め、怪しげな宗教的言説が氾濫している。テロを使嗾する宗教的な呼びかけの大半がおそらくオンライン・データをもとに宗教権威を偽装して粗製乱造されたものと考えられる。

 今日の仮想空間上では宗教知識人への敬称として用いられてきた「シェイフ」の語も濫発気味である。大学などできちんとしたイスラーム諸学を修めていないはずのテロのイデオローグたち、アルカイダの指導者、オサーマ・ビン・ラーデンもアイマン・ザワーヒリーもシンパからはシェイフと呼ばれている。それどころかまともな教育すら受けていない、イラク・アルカイダのリーダー、ザルカーウィーまでもがシェイフの肩書で呼ばれる始末である。

 しかし、今日のイスラーム世界でもっとも影響力のある「シェイフ」といえば、それはまちがいなく「シェイフ・グーグル」であろう。これは、もちろん日本でいう「グーグル先生」のことだ。先般、グーグルの人工知能のコンピューター・ソフトウェア、AlphaGoがトップ・プロ棋士を破ったことが話題になった。今のところシェイフ・グーグルが、人工知能を使って、適切な宗教判断を行うといったことは聞かないが、近い将来、そうした人工知能が出てきたら、イスラーム世界はどうなるのだろうか。

プロフィール

保坂修司

日本エネルギー経済研究所理事・中東研究センター長。日本中東学会会長。
慶應義塾大学大学院修士課程修了(東洋史専攻)。在クウェート日本大使館・在サウジアラビア日本大使館専門調査員、中東調査会研究員、近畿大学教授等を経て、現職。早稲田大学客員教授を兼任。専門はペルシア湾岸地域近現代史、中東メディア論。主な著書に『乞食とイスラーム』(筑摩書房)、『新版 オサマ・ビンラディンの生涯と聖戦』(朝日新聞出版)、『イラク戦争と変貌する中東世界』『サイバー・イスラーム――越境する公共圏』(いずれも山川出版社)、『サウジアラビア――変わりゆく石油王国』『ジハード主義――アルカイダからイスラーム国へ』(いずれも岩波書店)など。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

カタール、ガザ交渉の仲介役見直し 政治的悪用に懸念

ワールド

G7外相、中東・ウクライナ情勢議論 イスラエル報復

ビジネス

訂正-焦点:低迷する中国人民元、企業のドル積み上げ

ビジネス

FRBのバランスシート縮小、25年まで続く公算=N
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:老人極貧社会 韓国
特集:老人極貧社会 韓国
2024年4月23日号(4/16発売)

地下鉄宅配に古紙回収......繁栄から取り残され、韓国のシニア層は貧困にあえいでいる

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 2

    価値は疑わしくコストは膨大...偉大なるリニア計画って必要なの?

  • 3

    【画像・動画】ヨルダン王室が人類を救う? 慈悲深くも「勇ましい」空軍のサルマ王女

  • 4

    パリ五輪は、オリンピックの歴史上最悪の悲劇「1972…

  • 5

    人類史上最速の人口減少国・韓国...状況を好転させる…

  • 6

    アメリカ製ドローンはウクライナで役に立たなかった

  • 7

    攻撃と迎撃の区別もつかない?──イランの数百の無人…

  • 8

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 9

    対イラン報復、イスラエルに3つの選択肢──核施設攻撃…

  • 10

    天才・大谷翔平の足を引っ張った、ダメダメ過ぎる「無…

  • 1

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 2

    NASAが月面を横切るUFOのような写真を公開、その正体は

  • 3

    犬に覚せい剤を打って捨てた飼い主に怒りが広がる...当局が撮影していた、犬の「尋常ではない」様子

  • 4

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 5

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 6

    帰宅した女性が目撃したのは、ヘビが「愛猫」の首を…

  • 7

    攻撃と迎撃の区別もつかない?──イランの数百の無人…

  • 8

    「もしカップメンだけで生活したら...」生物学者と料…

  • 9

    温泉じゃなく銭湯! 外国人も魅了する銭湯という日本…

  • 10

    アインシュタインはオッペンハイマーを「愚か者」と…

  • 1

    人から褒められた時、どう返事してますか? ブッダが説いた「どんどん伸びる人の返し文句」

  • 2

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 3

    88歳の現役医師が健康のために「絶対にしない3つのこと」目からうろこの健康法

  • 4

    ロシアの迫撃砲RBU6000「スメルチ2」、爆発・炎上の…

  • 5

    バルチック艦隊、自国の船をミサイル「誤爆」で撃沈…

  • 6

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 7

    巨匠コンビによる「戦争観が古すぎる」ドラマ『マス…

  • 8

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 9

    1500年前の中国の皇帝・武帝の「顔」、DNAから復元に…

  • 10

    浴室で虫を発見、よく見てみると...男性が思わず悲鳴…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story