アングル:内戦下のスーダンで相次ぐ病院襲撃、生き延びた医師らが惨状語る
10月25日、スーダンの準軍事組織「即応支援部隊(RSF)」が主要都市ファシェルを包囲した。写真は4月、ザムザム避難民キャンプでRSFによる診療所攻撃を目撃したイスラ・ムフタールさん。北ダルフール州タウィラで6月撮影(2025年 ロイター)
Lena Masri Nafisa Eltahir
[28日 ロイター] - 10月25日、スーダンの準軍事組織「即応支援部隊(RSF)」が主要都市ファシェルを包囲した。戦闘員が政府軍(SAF)の地域に迫る中、同地で唯一機能していたサウジ病院から派遣された最低限のスタッフが、仮設の救急治療室で急増する負傷者の対応にあたっていた。
病院周辺では砲弾が飛び交い、市民や戦闘員を直撃した。「まるでこの世の終わりのようだった」と看護師の1人は話す。患者が押し寄せ、彼女の白衣は血に染まった。ガーゼや止血帯は不足し、蚊帳で傷口や折れた手足を包んだという。
「患者のところに行くには、死体の上を飛び越えなければならなかった」とこの看護師は語った。「頭上には無人偵察機がいて、埋葬することもできなかった」
ある目撃者は、翌26日も砲撃が続き、RSFの戦闘員が病院に入ってきたと話した。
RSFの戦闘員は27日、商人のアブダラ・ユシフさんを路上で拉致し、連行した。ユシフさんはロイターに対し、子どもや女性、高齢者、逃げ遅れた患者らの遺体が散乱しているのを見たと語った。RSFの戦闘員が病院から人々を連れ去るのも目にしたという。身代金目的で拘束された人もいれば、殺された人もいた。
「彼らは若者を連れ去り、路上で殺した」とユシフ氏は語った。
世界保健機関(WHO)の報告によると、10月26日のサウジ病院への砲撃では看護師1人が死亡したほか、医療従事者3人が負傷した。28日にも別の攻撃があり、患者ら460人以上が銃撃され殺害されたという。ロイターは日付と死者数を確認できなかった。
10月28日の衛星画像から、サウジ病院で発生した大量虐殺の痕跡がうかがえる。米エール大学人道研究所は画像分析で、人間ほどの大きさの物体が集まっていると指摘。研究者らによると、その後の画像にはイスラム教の埋葬慣習に反して焼却された遺体のようなものが写っており、白い長方形の物体が「黒い煙を出しながら明らかに焦げていた」という。
<増える医療施設・関係者への攻撃>
10月のサウジ病院への攻撃について医療関係者らは、北ダルフール州の州都ファシェルの医療システムを解体し、市民を遠ざけ、同市を支配下に置くRSFの作戦の一環であるとみている。
RSFはコメントの要請に応じていない。
RSFは10月、ファシェル占領前に発表した声明で、同市の病院は敵によって兵舎として、また攻撃を仕掛けるために利用されてきたと主張した。これに対し、ファシェルの医療従事者は異議を唱え、施設は民間人と負傷兵の両方を治療する医療目的のみに使用されていると述べた。国際人道法では、病気や負傷により従軍できなくなった戦闘員と、彼らを治療する医療施設は、攻撃から保護されると定められている。
医療施設や医療従事者への暴力が報告される事例は、現代の戦争で増加傾向にある。国際非政府組織(NGO)「紛争下における保健医療保護連合(SHCC)」のためにデータ収集を行う「インセキュリティー・インサイト」によると、2021年初頭から25年10月下旬までの間に、医療に影響を及ぼす紛争関連の暴力・妨害行為は世界中で少なくとも1万2944件記録されている。
報告された事件数は21年には1602件、22年は2315件、23年は3217件、そして24年が最も多く3891件だった。パレスチナ自治区ガザやミャンマー、スーダン、ウクライナでの紛争が主な現場となっている。インセキュリティー・インサイトは、報道や非営利団体の証言、その他、既に公開されている情報に基づいて集計を行っている。発生した全ての事件について詳細を把握できておらず、報道の質も国・地域によって異なる。
こうしたデータのほか、十数人の医師、援助関係者、住民への取材から、ファシェルでは24年春以降、医療機能の着実な破壊と解体が進んでおり、今年10月のRSFによる占拠以降はさらに加速していることがわかった。
23年4月の内戦勃発以来、北ダルフール州の医療施設では少なくとも130回の攻撃や妨害行為を受けたり、破壊されている。このデータでは少なくとも71%がRSF、3%が政府軍によるもので、残りの大部分は加害者不明、もしくはRSFと政府軍双方の戦闘に起因するとしている。少なくとも40人の医療従事者が殺害されたという。
政府軍高官はロイターの質問に対し、医療施設を攻撃したという報道は誤りであるとした。「軍はRSFが侵入する以前からファシェル市民を保護していた。スーダン国内のどの場所であれ、これは軍の義務だ」と述べた。
<病院は次々に閉鎖>
医療施設をねらった攻撃は、RSFが24年4月にファシェルを包囲した後に激化した。略奪や病院への物資補給の妨害、院内での銃撃、施設閉鎖を強いられる砲撃や無人機攻撃まで、その手段は多岐にわたった。
町の病院は、次々に失われた。24年5月11日には、SAFによる空爆がバビケル・ナハル小児病院から約50メートルの地点に着弾。データと国際医療援助団体「国境なき医師団(MSF)」の報告書によると、集中治療室(ICU)の屋根が崩れ、子ども2人と介護者1人が死亡した。この病院も閉鎖された。
外科医のエゼルディン・アソウ氏は24年6月、南部病院での手術中、RSFの砲撃が手術室を破壊したとロイターに明かした。翌日にはRSFの戦闘員が病院を襲撃し、アソウ氏を殴打したという。病院は無期限閉鎖となり、アソウ氏のチームはサウジ病院に移ることを余儀なくされた。
住民らは、RSFの進軍によって診療所が破壊されるたびに、別の診療所へと押しやられたと語った。
「病院が攻撃された場合、負傷した市民はどうすればいいのか」とアソウ氏は言った。「動ける人は出て行くしかない」
3人の医師がロイターに語ったところによると、サウジ病院が1年以上前に同地で最後の医療施設となって以降、激しい攻撃にさらされ続けたという。砲撃からドローン攻撃へとエスカレートし、ここ数カ月はほぼ毎日、砲撃が行われた。
医療従事者7人とほかの情報筋3人らはロイターに対し、医療従事者がドローンで追跡されたことを明かした。医師らは身を隠さざるを得ず、塹壕(ざんごう)や自宅でも手術を行った。ある建物でトリアージ(治療する優先度の選別)を行い、別の建物で手術、また別の建物は回復施設にと、仮設の医療ネットワークを築いて患者の治療にあたった。救急車は破壊され、移動手段は手押し車やロバの荷車となった。こうした移動はドローンに追跡され、患者が施設に到着するやいなや爆撃が行われたという。
「彼らが負傷者を運ぶと、玄関先でドローンが仕留めるのだ」とアソウ氏は語った。
<診療所での襲撃>
戦時国際法では、民間人や民間施設を標的にすることは禁じられており、特に病院や医療施設に対してはより高度な法的保護が与えられている。スタンフォード大学法科大学院のトム・ダネンバウム教授はファシェルでの医療施設に対する攻撃について、繰り返し、頻繁に行われており、明らかな違反であると指摘し、「明らかに戦争犯罪の捜査が必要だ」と述べた。
4月、RSFの攻撃により北ダルフール州のザムザム避難民キャンプから数十万人が避難を強いられた際、イスラ・ムフタールさんや他の女性は人道援助団体「リリーフ・インターナショナル」が運営するキャンプの主要な保健センター近くのポンプで水をくんでいたという。そこにRSFの車両が到着し、戦闘員が外に飛び出した。
戦闘員の1人に「なぜまだここにいるのか、負傷したらどうするのか」と尋ねられた。誰かが保健センターが開いていると伝えると、戦闘員たちは診療所に向かって車を走らせた。数分後、ムフタールさんは銃声と悲鳴を聞いたと振り返った。
この診療所で働いていた看護師は同日午前11時ごろ、RSFの戦闘員が到着したと語った。戦闘員は診療所クリニックのスタッフ5人を仰向けに寝かせ、銃を向け、発砲したという。マフムード・バビカー医師は、看護師とともに隠れていた塹壕を出ようとしていたところをRSFの兵士に撃たれ、看護師の上に倒れこんだ。戦闘員はその後、同僚の男性3人が隠れている別の塹壕に向かった。銃声を聞いて見に行くと、3人とも死んでいた。
「彼らは皆、私の兄弟のようだった」と看護師は語った。バビカー医師ら合計9人のスタッフが死亡したという。
RSFの戦闘員は診療所を物色し、携帯電話やノートパソコン、医薬品、栄養失調の子どものための治療用ビスケットやミルクを奪っていったと看護師は話した。彼女の同僚を殺した後、ある戦闘員が看護師と女性の同僚を「ファランガヤット(政府軍の回し者)」と呼んだ。
「私たちも死ぬと思った」と看護師は言った。だが戦闘員の1人が、彼女と同僚の女性に立ち去るよう言った。彼女たちは両手を上げて歩き出した。衣服は血まみれだった。
元同僚のほか2人の目撃者が、この襲撃に関する証言を裏付けた。
リリーフ・インターナショナルの保健センターで死亡した人々の中に、ムバラク・ファリドさんの息子ムハナドさんと、おいで養子のモハメドさんもいた。二人とも、同団体の運転手として働いていた。
団体に車両を提供していたファリドさんは、その晩、襲撃事件について知ったという。現場で見たムハナドさんの遺体の足には、骨が露出した傷もあったという。また、別の被害者は口を撃たれていた。前述のバビカー医師の頭蓋骨は粉々になっていた。ファリドさんら4人はミサイル攻撃の中、死者を1カ所に埋葬した。
「この医師たちは戦争とは無関係だ。息子たちも戦争とは何ら関係がない。彼らは銃を持ったことさえもないのだ」





