コラム

今日も東京で起きているケータイの悲劇と喜劇

2012年01月30日(月)09時00分

今週のコラムニスト:マイケル・プロンコ

〔1月25日号掲載〕

 先日、学生たちとの飲み会で、参加者の1人が悲痛な告白を始めた。盛り上がっていた宴は静まり返り、みんなの目に涙が浮かんだ。

 もう全部なくなっちゃったの、と女子学生は言った。人生最悪の体験を語る彼女の言葉に、周りは震えながら耳を傾けた。彼女は携帯電話を落としたのだ!

 強い衝撃を受けた携帯は修理不能となり、長年ためていたメールやアドレスやボーイフレンドの写真は二度と戻らない。彼女は涙を拭い、みんな心からの同情を寄せた。これぞ東京では日常的な悲劇──「携帯落下」の悲劇である。

 東京人にとって携帯の話題は、天気と同じくらいありきたりだ。誰もが何かしら言いたがる。携帯はお金と同じくらい東京の生活に欠かせない。だから携帯を落とした人がいると、周りは子供が目の前で転んだときのように心配する。

 誰かの手から携帯が滑り落ち、くるくると宙を舞い、舗道に弾むのを目撃すると、私はつい笑いだしそうになる。持ち主はあたふたしながら携帯を追い掛け、キョロキョロと地面を捜し回る。普段はクールな東京人が一瞬でパニックに陥る姿は、どこか滑稽だ。

 ある日の新宿駅で、前方から向かってくる人波の中に携帯を落とした人がいた。通勤客の蹴飛ばした携帯はアイスホッケーのパックのように床を滑り抜けた。こういう光景には胸が痛むが、人間と機械の関係がいかに心もとないかを見せつけられている気がする。

 もちろん、そんなことがわが身に起きたら笑ってなどいられない! 私も携帯を水たまりに落としたことがあるし(幸い壊れなかった)、レストランに忘れたこともあるし(夜の営業時間まで待って引き取りに行った)、公衆トイレで落としたこともある(周囲から「うわ......」という視線が飛んだ)。

 そのたびに私は、壊れていないかと怯えつつ携帯を手に取った。私は幸運だった。多くの東京人は、携帯を取り替えるのに24時間待つくらいなら、ノロウイルスに感染したほうがましだと思うだろう。

■希望を与えてくれる「お守り」

 携帯中毒者は世界中にいるが、特に東京人は携帯との絆が強いようだ。東京人は携帯と共に目覚め、携帯と共に眠る。恋人の手より携帯を固く、頻繁に握っている。新年会で酒に酔って体のあちこちが緩んでも、携帯だけは手放さない。

 でも電車の中で私は、画面にひびの入った携帯をよく見掛ける。一流ピアニストのように軽やかに動く東京人の指も、時にはへまをする証拠だ。

 東京の人たちにとって携帯はコミュニケーションの道具というだけでなく、赤ん坊のおしゃぶりのようなものだ。生活を守り、希望を与えてくれる電気仕掛けの「お守り」だ。昨年3月の大震災の後、ほとんどの人はまず携帯に手を伸ばした。

 だが、携帯も壊れることはある。

 柔らかく優しい手から携帯が滑り落ち、固くリアルな床にぶつかると、携帯中毒者たちはゲームやホームページやメールへの逃避を断ち切られる。重度の中毒者は、携帯なしで東京のど真ん中に放り出されたことにおじけづく。戦場で刀を奪われたサムライのように。

 生活のすべてを支配するこの万能の機械から逃げ出したいという気持ちがつい表に出てしまっている人はいないのだろうか。私のように、携帯を常に持ち歩き、気に掛けてしまうことで現実に集中できない毎日を、必ずしも好ましく思っていない東京人はいないのか。

 あるいは携帯を落とすことは、新しい機種を買う口実なのだろうか?

 東京人はとても自然に、ひっきりなしに携帯を使う。でも時には手の中にあるテクノロジーの奇跡から目を離し、辺りを見回してみるのもいい。そこには、また別の複雑なテクノロジーから成り立つ奇跡の都市が広がっている。

プロフィール

東京に住む外国人によるリレーコラム

・マーティ・フリードマン(ミュージシャン)
・マイケル・プロンコ(明治学院大学教授)
・李小牧(歌舞伎町案内人)
・クォン・ヨンソク(一橋大学准教授)
・レジス・アルノー(仏フィガロ紙記者)
・ジャレド・ブレイタマン(デザイン人類学者)
・アズビー・ブラウン(金沢工業大学准教授)
・コリン・ジョイス(フリージャーナリスト)
・ジェームズ・ファーラー(上智大学教授)

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