コラム

普通のイラク人にとっての国民和解とは

2014年09月11日(木)10時10分

 イラクの新内閣が決まった。

 北と西を制圧し、さらにクルド地域と中央政府支配領域の境界線を切り裂くように、イスラーム国がスンナ派居住地域を東へ東へと進撃するなか、これ以上イラクという国が分断させないように、決死の思いで組閣された新政府であってほしい――。その期待は、残念ながら、あまり叶えられてはいないようだ。

 アバーディが知識人出身で、それなりに評価されているのは前回も述べたが、その評価には彼がニューフェースだからという点がある。これまでの泥臭い権力争いとは、無縁に見えるというわけだ。

 ところが、彼の組閣した新内閣は、むしろ過去の権力争いの中心人物たるオールドフェースだらけになってしまった。追い落したはずのマーリキーが副大統領についたばかりではなく、マーリキーと犬猿の仲である元首相のイヤード・アッラーウィも、同じく副大統領だ。さらには、これまたマーリキー批判の急先鋒で、スンナ派政治家として最も票を集めてきたオサーマ・ヌジャイフィー元国会議長も同じポストに就いた。

 さらに副首相には、ヌジャイフィーと肩を並べるスンナ派の重鎮政治家で旧バアス党系のサーリフ・ムトラク、旧バアス党を目の敵にするサドル潮流の筆頭政治家であるバハ・アアラジ、そしてクルド民主党の大番頭で元外相のホシャイル・ズィバーリが就いた。これだけ大物ばかりを「副」に置いて、ニューフェース首相は、はたしてこれらを操縦できるのか。さらには閣内を見ても、ジャアファリ外相はマーリキーの前の首相だし、石油相のアーデル・アブドゥルマフディは、毎回首相候補に名前が挙がりながら万年候補どまりの元副大統領だ。

 これは挙国一致とはいわない。犬猿の仲の各派閥のドンを並べれば、国民融和が進むというものでもない。外せないうるさ方たちに要職を与えることが危機解決への第一歩だ、と考えているところが、いかに政治家たちの意識が、本当に危機に晒されているイラク国民の日常感覚からずれているかを表している。

 そんななかで、イラク北部のキルクークという街で平和醸成のためのNGO活動をしているイラク人に、出会った。日本国際ボランティアセンター(JVC)が日本に招聘したアーリーさんという30代の男性で、過去六年の間、疲弊したキルクークの子供たちの平和教育を地道に行ってきた人物だ。

 キルクークは、民族的、宗派的に複雑なイラク社会を凝縮したような街である。クルド人、トルコマン人、アラブ人に加えて、キリスト教徒もいる。トルコマン人にはスンナ派もシーア派もいて、民族対立に加えて宗派対立の要素も抱えている。さらには、キルクークはイラクで初めて石油の商業的開発が行われた、有数の油田地帯だ。そのため最初はイギリスが、その後はイラク中央政府が、石油開発のために労働者や役人を、大掛かりに街の外から連れてきた。そのたびに各民族の人口バランスが崩れ、強制移住が起きる。戦争や内戦や政権交代が起きるたびに、追い出されたり追い出された土地を奪い返したりといった抗争が続いてきた。

 なので、キルクークで平和醸成ができたらイラクでそれを実現する、モデルケースになるはずだ。それだけに、困難を極める。にもかかわらず、その難業に取り掛かろうとするイラク人がいるところが、まず驚きである。

 アーリー氏と話していてとてもしっくりくるのは、彼がイラクで生まれイラクで育った人間として、健全な国づくりの常識を持っているところだ。もともとバグダードで育った彼は、諸民族、諸宗派が当たり前に共存しているなかで暮らしてきた。コンピューター・エンジニアリングを学び、人間は出自ではなく、教育や訓練で身に着けたものによって社会に評価されるものだと考える、普通の青年である。

 だから、それが当たり前になっていない今のイラクに危機感を感じている。数年前、バスに乗っていたときに武装勢力に止められ、同じ乗客が「スンナ派だ」というだけでその場で射殺された事件に出食わした。似たような出来事は、当時あちこちで起きていた。アーリー氏は、それがきっかけで、「インサーン」(アラビア語で「人間」「人道」の意味)というNGOを立ち上げた。

 彼との雑談のなかで印象的だったのが、今のイラク社会でプロがプロとしての自覚もないし評価もされない、と嘆いていたことだ。経済事業や石油開発は、ちゃんとその教育を受けた専門家が担うべきだし、国防はちゃんと訓練されたプロの軍人が担うべきだ、と彼は言うのである。確かに、イスラーム国が攻めてきて、国軍が一斉に逃げてしまったのは、兵士がちゃんとした軍人としての訓練を受けていなかったからだ。彼らはただ給料をもらうためだけに、兵士になっただけなのだから。
 
 アーリー氏は、フセイン政権時代のイラクで教育を受けている。フセイン政権は独裁体制だったが、経済分野や石油開発は、専門家に任せるテクノクラート重視の政策を取っていた。今のアバーディ首相同様、外せない重鎮を回りに抱えながらも、彼らは「革命評議会」とか「党指導部」とかの窓際ポストに追いやって、実際の閣僚はテクノクラートで占められていた。フセイン政権はひどかったが、その発想はよかったじゃないか、と考えるイラク育ちのイラク人は、少なくない。

 その一方で、アーリー氏の、逃げてしまった兵士に対する同情にも少し感動した。フセイン政権時代、プロとして厳しく訓練を強いられてきたイラク人たちは、もう誰とも戦いたくないのだ。敵を想定して、厳しい軍事訓練を続けるには、過去の戦争経験に飽き飽きしすぎたのが、今のイラク人である。だから、プロ意識を持てといわれても持てないのは、仕方がないかもしれない――。

 イラクはまだ希望があるな、と思わせてくれる出会いだった。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

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