コラム

イラク:ポピュリスト式統治の限界

2011年06月29日(水)18時20分

 この半年、「アラブの春」に話題をさらわれてすっかり影が薄くなっているが、イラクは今、どうなっているのだろう。今年末にはイラク駐留の米軍は全部撤退することになっているが、大丈夫なんだろうか、米軍撤退後イラクは再び混乱に陥らないのだろうか――。去年まではしきりに投げかけられていたこうした問いも、今ではさほど論じられない。

 そのイラクで、6月10日、政府に対する抗議デモが全国各地で開催された。政府の統治能力のなさ、向上しない経済、社会情勢や、政府高官の間で蔓延する汚職への抗議などがデモのテーマである。ようやく組閣された第二期マーリキー内閣も、野党とのポスト調整は遅々として進まず、首相ひとりがいくつもの大臣職を兼任する状態。「何もできないのにどうしてそこまでポストにしがみつく」と、どこかで聞いたような批判が、各方面からマーリキー首相に浴びせられているところだ。大きな治安の悪化は見られないとはいえ、4月以降は要人暗殺事件も増えている。

 抗議デモが最も槍玉に挙げるのは、生活必要物資の不足や失業問題だ。彼らの要求を聞きながら、いくらなんでも八年間も電力不足のままとはおかしいじゃないか、と思いがちだろう。実際、発電量は戦前レベルの1.5倍に増えているのだ。だが、そこで見落とされているのが、エアコンの普及である。戦後経済を自由化したことで、海外から自由に製品が入ってくる。それまでイラクでは、ウォータークーラーという、水分を扇風機で飛ばして気化熱と風で冷気を得る方法が一般的で、消費電力も少なくて済んだ。しかし戦後エアコンが市場に溢れると、高くても飛ぶように売れ、消費電力もうなぎのぼり。ましてや今年は、8月にラマダン(断食月)が来る。酷暑の夏にエアコンなしで、断食月恒例の宴会の数々を、どうこなせばよいのか。

 電力をなんとかしろ、という切実な民の声に、政府の対応はとりあえず口先三寸だ。「この夏すべての家庭に電力を行き届かせます」と、実現できるはずはない口約束をし、政権の失策を官僚の無能のせいにする。6月10日にデモが組織された理由は、その100日前、「アラブの春」のイラクへの波及を恐れたマーリキー首相が国民に、「100日間の猶予をくれ、その間に各省庁に社会経済状況の改善を行わせる」と約束したからだ。デモ実施の日の前後に、各省庁から大量の報告書が公開され、その改善努力が強調されたのだが、報告結果がリアリティを持たなかったことはデモの抗議内容を見れば明白だ。

 口先三寸で生活環境の改善を納得させられなければ、政権が取る次の方法は現物のバラ撒きである。とりあえず物資をバラ撒いて、一時的でも国民の間に満足感を与える。それこそ世界中のポピュリスト政権が取る手法である。まさに、かつてフセイン政権が国民の不満を抑えるために取った手法だ。

 しかし、フセイン時代とたいして変わらないポピュリスト政策に依存するマーリキー政権が、フセイン時代と決定的に違うのは、イラク新体制が市場経済化をベースにしている点である。「戦時耐乏生活」を謳ってバラ撒き効果を最大限に利用したフセイン政権に比べて、欧米の贅沢品がどんどん流入して消費者意欲を駆り立てる今のイラクでは、同じバラ撒きの量で同じ効果は期待できない。

 洋の東西で似たような首相が似たような環境で、悩ましい夏を迎えそうだ。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

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