コラム

公安機密リークと在日イスラーム教徒

2010年12月16日(木)11時08分

 ウィキリークス問題は、いまだ世界のあちこちに波紋を呼んでいるが、「情報流出」「暴露」といえば、日本でも気になる事件があった。

 先月末に第三書館から出版された「流出『公安テロ情報』全データ」がそれである。警視庁公安部から流出した「テロ情報」を満載した本だが、そこでは公安がどういう人物を「テロ」操作対象としているかを、写真や個人情報を一切隠さず掲載している。そしてそのほとんどが、日本にいるイスラーム教徒である。

 本が出たとたんに私がしたことは、真っ先に知った名前はないか、探すことだった。私の勤める東京外国語大学には、外国人留学生が多く学んでいるからである。二年前に政府が「留学生30万人計画」を打ち出して以降は、留学生の増加は一層顕著だ。そうした学生が困ったことになってはいないか、知り合いに嫌疑がかかっていないか・・・・。
 
 これまでもイスラーム教徒の学生が警察に疑われているのでは、と思われる例はあった。「たまたま知り合いになった警察関係の人が、しきりに展覧会やハイキングに誘ってくるのだけれど、なにかウラがあるのでは」とか、「公安関係の人に研究テーマをあれこれ尋ねられた」と訴えてくる。9-11事件を契機に欧米諸国で「イスラーム教徒=テロリスト」視されてきた彼らは、日本でも自分たちは疑われているのでは、と疑心暗鬼、不安に駆られた生活を強いられている。

 この流出データは、まさにそうした「疑心暗鬼」が具現化された内容だ。だがそれ以上に問題なのは、リークされたイスラーム教徒の個人情報が追い討ちのように活字ではっきりと公開されてしまったことである。データを暴露されたイスラーム教徒が出版社を訴えて仮処分申請を行い、裁判所は本書の出版差し止めを決定した。ただでさえ「周りの白い目」を懸念しながら生活する彼らにとっては、この情報公開は打撃だっただろう。

 もともとイスラーム教徒を「テロ」視した警察がけしからん、というのがこのリーク本の趣旨だ。だが、その結果「テロ」視されたイスラーム教徒の立場を追い込むことになっては、本末転倒ではないか。個人情報漏洩でイスラーム教徒が被るであろう被害を、彼らに代わって出版社が一手に引き受ける、との覚悟でもあればよいが、そうでもなさそうだ。

 私が一番悲しいのは、中東やイスラームを論じ語る知識人が、実は他の目的を論じるためにこれらの地域の人々とその問題をダシにしているのではないか、と思えることである。日本の警察の問題を暴くために、イスラーム教徒が公安の「テロ対策」の被害者であることを取り上げるが、そこではイスラーム教徒の存在は警察批判の材料として矮小化される。主張すべき議論ありきで、ある特定の地域、社会の人々の置かれた立場を自分の主張を正当化するために利用する、というアプローチには、強い憤りを覚える。それは問題の「ウィキリークス」にもいえることだ。

 第三書館は、過去に中東、イスラーム関係のたいへん優れた書籍を多く出版してきた出版社である。だからこそ今回の「リーク」事件は、とても心が痛む。

プロフィール

酒井啓子

千葉大学法政経学部教授。専門はイラク政治史、現代中東政治。1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。英ダーラム大学(中東イスラーム研究センター)修士。アジア経済研究所、東京外国語大学を経て、現職。著書に『イラクとアメリカ』『イラク戦争と占領』『<中東>の考え方』『中東政治学』『中東から世界が見える』など。最新刊は『移ろう中東、変わる日本 2012-2015』。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

米財務長官、暗号資産規制法案の可決を議会に要請

ビジネス

イオン、27年2月期純利益は730億円見込む 市場

ビジネス

財政支出で市場金利上昇の場合、投資減少の「可能性あ

ビジネス

消費者態度指数3月は前月比6.4ポイントと大幅低下
MAGAZINE
特集:トランプの大誤算
特集:トランプの大誤算
2026年4月14日号(4/ 7発売)

国民向け演説は「フェイク」の繰り返し。泥沼化するイラン攻撃の出口は見えない

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    韓国、生理用品無償支給を7月から開始 靴の中敷きで代用した少女たちから10年、アジア初の普遍的支援へ
  • 2
    古代のパピルスから新たに見つかった「2500年前の文章」...歴史を塗り替えかねない、その内容とは?
  • 3
    「南東部と東部の前線で480平方キロ奪還」とウクライナ軍司令官 ロシア軍「⁠春の​攻勢」は継続
  • 4
    「地獄を見る」のは米国か──イラン地上侵攻なら革命…
  • 5
    米特殊部隊、米空軍兵士救出「大成功」に残る多くの…
  • 6
    高学力の男女で見ても、日本の男女の年収格差は世界…
  • 7
    戸建てシフトで激変する住宅市場
  • 8
    キッチンスポンジ使用の思いがけない環境負荷...マイ…
  • 9
    ポケモンで遊ぶと脳に「専用の領域」ができる? ポ…
  • 10
    アメリカとイランが2週間の停戦で合意...ホルムズ海…
  • 1
    米特殊部隊、米空軍兵士救出「大成功」に残る多くの疑問
  • 2
    イラン戦争の現実...アメリカとイスラエル、見え始めた限界
  • 3
    韓国、生理用品無償支給を7月から開始 靴の中敷きで代用した少女たちから10年、アジア初の普遍的支援へ
  • 4
    「南東部と東部の前線で480平方キロ奪還」とウクライ…
  • 5
    「考えの浅い親」が子どもに言ってしまっている口ぐ…
  • 6
    古代のパピルスから新たに見つかった「2500年前の文…
  • 7
    「地獄を見る」のは米国か──イラン地上侵攻なら革命…
  • 8
    攻撃開始日も知っていた?──イラン戦争を巡る巨額取引…
  • 9
    米軍が兵器を太平洋から中東に大移動、対中抑止に空白
  • 10
    【銘柄】イラン情勢で一躍脚光の「NEC」 防衛・宇宙…
  • 1
    温暖化で増えた? サンマやサケ減少の裏で激増する「安価で栄養価の高い魚」の正体
  • 2
    米特殊部隊、米空軍兵士救出「大成功」に残る多くの疑問
  • 3
    「根底にあるのは怒り」...日本の「3Dプリンター住宅」企業が救う、ウクライナの未来
  • 4
    「ノーと言えるスペイン」の背景に国防意識...次期ス…
  • 5
    キャサリン皇太子妃、ナイジェリア大統領夫妻出迎え…
  • 6
    ロシア政府、痛恨のミス...プーチンの「健康不安説」…
  • 7
    数時間以内に死に至ることも...若者の間で集団感染が…
  • 8
    「日本より、自分の国(フランス)を心配すれば?」…
  • 9
    米軍も防ぎきれないイランのドローン攻撃──イラン製…
  • 10
    メーガン妃、娘リリベット王女との「お手伝い姿」公…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story