コラム

一人の官僚の進退が霞ヶ関と永田町に広げる波紋

2011年07月14日(木)18時44分

 いま政界・官界が、一人のキャリア官僚の身の振り方に注目している。古賀茂明氏。経済産業省の大臣官房付という「待命ポスト」について1年半になる。最近はテレビのワイドショーなどにも出ているので、ご存じの人も多いだろう。彼の著書『日本中枢の崩壊』は、アマゾンでベストセラーの第1位になった。

 古賀氏は先月末、「7月15日までに退職せよ」との連絡を受けた。これに対して彼は「大臣と直接、話したい」と申し入れたが、会談は実現していない。きょう現在でも海江田経産相との面会の日程は決まっていないので、あす辞めるのは無理だ、と古賀氏は言っている。

 こうした中で、彼を支援する超党派の議員連盟ができ、11日にはその会合が開かれた。古賀氏は「私はポストに未練があるわけではなく、仕事をさせてほしいと言っている。仕事がないなら、首相のようにいつまでも粘る気はない」と言った。しかし応援する議連は河野太郎氏や渡辺喜美氏など20人以上に増え、古賀氏も「辞めるに辞められなくなりました」と困惑していた。

 古賀氏の運命は、民主党政権の迷走を反映している。彼は自民党政権の渡辺喜美行革担当相に起用されて国家公務員制度改革推進本部の事務局長になったが、渡辺氏がいなくなると法案は骨抜きにされてしまった。「天下りの廃止」は民主党のマニフェストの看板だったので政権交代で前進すると古賀氏は期待したが、現実に起こったことは逆だった。仙谷由人行政刷新相(当時)は、2009年末に古賀氏を経産省に戻してしまったのだ。

 この背景には、民主党と霞ヶ関の複雑な関係がある。民主党は「政治主導」を掲げて政権交代を果たしたものの、政権運営の経験のある政治家はほとんどいない。政務三役が電卓をたたいて「無駄の削減」を求めても、一次情報は官僚が握っているので、手も足も出ない。そこでオール霞ヶ関を敵に回すより、財務省だけは味方につけようという戦術に転換したのだ。

 これは1993年の細川政権のときに似ている。当時は新生党の小沢一郎代表幹事が、大蔵省(当時)の斉藤次郎事務次官と組んで「国民福祉税」を創設しようとして失敗した。いま当時の小沢氏に近い財務省とのパイプ役になっているのが仙谷氏である。財務省の要求は増税と公務員の身分保障であり、古賀氏の更迭を求めて仙谷氏の「踏み絵」にしたのだ。

 仙谷氏は古賀氏という踏み絵を踏んだ。その後の民主党は、公務員制度改革を骨抜きにし、自民党時代をはるかに超える天下りを認可するばかりか、「現役出向」という形で官庁に籍を置いたまま事実上の天下りを行なうことまで許してしまった。このように公務員制度改革が挫折した責任は民主党にあるが、根本的な原因は霞ヶ関の閉鎖的な人事制度にある。

 厳格な年功序列と終身雇用のおかげで、官僚は役所に退官後の人生まで面倒を見てもらうので、省内の「空気」を読んでそれに逆らわず、「本流ポスト」に残ることが重要になる。へたに正論をいうと「変なやつ」として傍流に追いやられ、「格下」の天下り先に行かされる。

 こういう状況がいやになった優秀な官僚は若いうちに辞めるが、民間も終身雇用なので受け皿が少ない。「公務員を長くやっているとビジネス感覚はないので、パブリックな仕事しかできない」と古賀氏も語っていた。今のように経済政策がボロボロになっている状況では、霞ヶ関に対抗して政策立案できるシンクタンクが必要だが、自民党の一党支配のもとではそういう機関が育たなかった。

 これは鶏と卵の関係だが、そういう政策シンクタンクが育てば、政党が政策で競争するようになり、民主主義が機能する。そして官僚をやめてもパブリックな仕事のできる場があれば、官僚は役所の中でも思い切ってものが言えるようになるだろう。アメリカでは、政策シンクタンクは「第5の権力」といわれるほど大きな影響力をもち、そのスタッフは政権が交代すると政権中枢に入る。

 日本は、まだ本格的な政権交代が実現してから2年もたたないので、こういうシステムが未発達なのはやむをえない。これから必要なのは、政治主導というスローガンではなく、それを実のあるものにしてゆく制度改革だろう。古賀氏の事件は、日本の民主主義が成熟する上で何が足りないかを示している。

プロフィール

池田信夫

経済学者。1953年、京都府生まれ。東京大学経済学部を卒業後、NHK入社。93年に退職後、国際大学GLOCOM教授、経済産業研究所上席研究員などを経て、現在は株式会社アゴラ研究所所長。学術博士(慶應義塾大学)。著書に『アベノミクスの幻想』、『「空気」の構造』、共著に『なぜ世界は不況に陥ったのか』など。池田信夫blogのほか、言論サイトアゴラを主宰。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

米の日鉄投資計画承認、日米の経済関係強化につながる

ワールド

米空母、南シナ海から西進 中東情勢緊迫化

ビジネス

ECB、政策の柔軟性維持すべき 不確実性高い=独連

ワールド

韓国、対米通商交渉で作業部会立ち上げ 戦略立案へ
MAGAZINE
特集:非婚化する世界
特集:非婚化する世界
2025年6月17日号(6/10発売)

非婚化・少子化の波がアメリカもヨーロッパも襲う。世界の経済や社会福祉、医療はどうなる?

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「タンパク質」より「食物繊維」がなぜ重要なのか?...「がん」「栄養」との関係性を管理栄養士が語る
  • 2
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高にかっこいい」とネット絶賛 どんなヘアスタイルに?
  • 3
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波でパニック...中国の輸出規制が直撃する「グローバル自動車産業」
  • 4
    サイコパスの顔ほど「魅力的に見える」?...騙されず…
  • 5
    林原めぐみのブログが「排外主義」と言われてしまう…
  • 6
    若者に大不評の「あの絵文字」...30代以上にはお馴染…
  • 7
    メーガン妃とキャサリン妃は「2人で泣き崩れていた」…
  • 8
    さらばグレタよ...ガザ支援船の活動家、ガザに辿り着…
  • 9
    ハルキウに「ドローン」「ミサイル」「爆弾」の一斉…
  • 10
    構想40年「コッポラの暴走」と話題沸騰...映画『メガ…
  • 1
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の瞬間...「信じられない行動」にネット驚愕
  • 2
    大阪万博は特に外国人の評判が最悪...「デジタル化未満」の残念ジャパンの見本市だ
  • 3
    「セレブのショーはもう終わり」...環境活動家グレタらが乗ったガザ支援船をイスラエルが拿捕
  • 4
    ブラッド・ピット新髪型を「かわいい」「史上最高に…
  • 5
    「サイドミラー1つ作れない」レアアース危機・第3波で…
  • 6
    ファスティングをすると、なぜ空腹を感じなくなるの…
  • 7
    今こそ「古典的な」ディズニープリンセスに戻るべき…
  • 8
    右肩の痛みが告げた「ステージ4」からの生還...「生…
  • 9
    アメリカは革命前夜の臨界状態、余剰になった高学歴…
  • 10
    脳も体も若返る! 医師が教える「老後を元気に生きる…
  • 1
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 2
    【定年後の仕事】65歳以上の平均年収ランキング、ワースト2位は清掃員、ではワースト1位は?
  • 3
    日本はもう「ゼロパンダ」でいいんじゃない? 和歌山、上野...中国返還のその先
  • 4
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊…
  • 5
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 6
    大爆発で一瞬にして建物が粉々に...ウクライナ軍「Mi…
  • 7
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 8
    あなたも当てはまる? 顔に表れるサイコパス・ナルシ…
  • 9
    ドローン百機を一度に発射できる中国の世界初「ドロ…
  • 10
    【クイズ】EVの電池にも使われる「コバルト」...世界…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story