ナイチンゲールの功労の源は「数学」にあった...イギリス政府を動かした画期的な「プレゼン方法」とは?
さらに、ロシア側の奇襲や攪乱作戦により、多くの兵士が傷を負い、前線から離れ、コンスタンティノープル郊外のユスキュダルに4カ所ある野戦病院へと運ばれた。
野戦病院の看護師を監督する立場として選ばれたのがナイチンゲールである。彼女は1854年10月に政府から要請を受け、翌月、38名の看護師とともにユスキュダルに到着した。
ナイチンゲールの分析と行動が病院を変える
ナイチンゲールが到着した病院はまるで死の待合所だった。怪我を治すはずの場所で60%以上もの兵士が帰らぬ人となっていたのである。たくさんの負傷兵で院内があふれかえり、医薬品や食料が不足していた。それだけでなく、不衛生な環境で感染症が蔓延していた。
その惨状をナイチンゲールはどう見たのか。
彼女はすぐに、死亡率が高い原因は怪我ではなく「衛生環境に起因するもの」だと分析した。同年12月には病院の衛生状態改善のために動き始めた。
幸運にも軍の予算と民間からの寄付に加え、父からの資金援助もあった。
そこでナイチンゲールは新しい厨房や洗濯施設を建設し、質の良い食材や医薬品を購入した。それまでの場当たり的な病院運営から一転、看護師たちの仕事内容を整理し、秩序だった運営へと変化させた。
さらに、これらの変化に伴う死亡率の変動をナイチンゲールは細かく記録していた。ナイチンゲールが訪れたときには60%以上だった死亡率が、半年後には2%にまで下がったといわれている。