コラム

銀メダリスト、ナンシー・ケリガン選手の悲劇

2010年02月12日(金)14時13分

 ナンシー・ケリガン選手といえば、1994年のリレハンメル・オリンピックの女子フィギュアスケートで銀メダルを獲得した、アメリカの人気者ですが、同時にこのオリンピックの直前に起きた「襲撃事件」の被害者としても有名です。この「事件」の際にはライバルのトーニャ・ハーディング選手が、背後で指示をしていたというスキャンダルが有名です。ハーディング選手は疑惑の中で五輪には出場したものの、感情的になって自滅、一方でケガを乗り越えて出場したケリガン選手はメダルを獲得したというわけで、全米、いや世界中の話題になりました。

 五輪終了後に、ハーディング選手は罪を認めて選手を引退、禁固刑は辛うじて逃れたものの、その後は「スキャンダラスな有名人」ということで、ボクシングや格闘技に進出するなど「お騒がせ」な存在になっていきました。一方のケリガン選手は、五輪の銀メダルを勲章に引退後は、解説者やプロのアイスショーなどで名声を維持していったわけで、「クリーンなケリガン、ダーティなハーディング」という対比をされることが多かったように思います。

 そんな世間のイメージに衝撃を与えたのが、今回、バンクーバーを前にしてのケリガン家の不幸です。今年の1月24日に70歳の父親が兄のマーク・ケリガンともみ合っている中で、急死したのです。兄は逮捕され、もしかすると殺人罪で起訴されるかもしれないというのです。直後には、TVは散々報道していましたが、改めてこの事件のことが気になったのは、今週になって『ニューヨーク・タイムズ』がある記事を掲載していたからです。

 タイトルは『ヒューズ家は、金メダルにも負けない』、2002年のソルトレイク・シティー五輪で優勝したサラ・ヒューズ選手が米国のフィギアスケート殿堂に名を連ねたという出来事と共に、一家の近況を伝える記事です。内容は、イェール大を卒業して充実した日々を送るサラ、妹のエミリもハーバードに復学、ガンを克服した母親も含めて家族はとても幸福だという何のことはないストーリーです。サラはイェール大に在学中も、自分が金メダリストだということを隠さず、時には友人と一緒にに五輪での演技のビデオを見て「短い時間だけどあの時は本当に長く感じた」などと語っていたそうです。

 記事の中には一切出てきませんが、タイトルからしてケリガン家の不幸を意識して書かれたのは明白です。この新聞はニューヨーク地区のローカル紙ですから、マサチューセッツのケリガン家に対して、地元のヒューズ家を持ち上げるというニュアンスもあり、さり気なく母親がユダヤ系のヒューズ家を持ち上げて、アイリッシュのケリガン家とは「違う」という意味合いもあり、何といってもイェール、ハーバードに進学した姉妹を含めた「知的な家庭」を誇るような含みもあると思います。

 この記事を読んで、私はケリガン選手のことが何とも気の毒になりました。アメリカがフィギュアスケートで優秀な選手を輩出してきた背景には、日本や韓国とは違う事情があります。それは、アイスホッケーという文化がまずあり、父親ないし兄弟がアイスホッケー好きであることから、女の子がその影響を受けてスケートをはじめ、才能があるようだとやがてフィギアに進むというパターンです。ケリガン選手の場合は、今回問題を起こしたマークともう一人のお兄さんがアイスホッケー好きで、その影響でスケートに親しんだのです。経済的に恵まれなかった一家では、ケリガン選手のレッスン代を払うために、亡くなった父親がスケートリンクの製氷機運転のアルバイトをしたこともあるそうです。その兄が父の死に関係しているというのです。

 一方で、ヒューズ家の場合も、父親がコーネル大学のアイスホッケー部員だったそうで、その影響でサラもエミリもスケートを始めたようです。ただ、経済的には余裕のあったこの家庭の場合は、教育も熱心で、姉妹のそれぞれがアイビーリーグの一流校に進学しています。経済的な余裕や豊かな教育を受けることで、「オリンピックが全て」ではない思考回路を持つことができる、その結果として「金メダルに負けない家庭」というわけで、ストーリーとしては何とも分かりやすい話です。

 ヒューズ家の「成果」は立派だと思いますが、この記事自体には私は何とも言えないイヤな感じを持ちました。そこにある庶民性を見下すような視線、階層の固定化を追認しているような態度がどうしても気になるのです。記事を書いたのはジョージ・ヴェクセイという記者で、何の悪意もないのでしょうが、もしかしたらこうした種類の「視線」が社会にじわじわ広がっていることが、草の根保守の屈折した心情や、オバマ大統領の知性への反発などを生んでいるのかもしれません。

 ちなみに、今回のバンクーバー五輪では、アメリカの女子フィギュアスケート陣は、日韓のスーパースターたちの陰に入ってしまって、余り話題にはなっていません。一方で、期待されていた女子アルペンのリンゼイ・ボン選手もケガが心配ということで、独占中継権を持っているNBCはCFが売れなくて困っているそうです。そんなわけで現在形での話題が少ない分、ケリガン家の「スキャンダル」が何度も報道されるということもあり、これも気の毒な話です。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

焦点:トランプ税制法、当面の債務危機回避でも将来的

ビジネス

アングル:ECBフォーラム、中銀の政策遂行阻む問題

ビジネス

バークレイズ、ブレント原油価格予測を上方修正 今年

ビジネス

BRICS、保証基金設立発表へ 加盟国への投資促進
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:トランプvsイラン
特集:トランプvsイラン
2025年7月 8日号(7/ 1発売)

「平和主義者」のはずの大統領がなぜ? 核施設への電撃攻撃で中東と世界はこう変わる

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「飲み込めると思った...」自分の10倍サイズのウサギに挑んだヘビの末路
  • 2
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...父親も飛び込み大惨事に、一体何が起きたのか?
  • 3
    「やらかした顔」がすべてを物語る...反省中のワンコに1400万人が注目
  • 4
    【クイズ】「宗教を捨てる人」が最も多い宗教はどれ?
  • 5
    後ろの川に...婚約成立シーンを記録したカップルの幸…
  • 6
    ワニに襲われた直後の「現場映像」に緊張走る...捜索…
  • 7
    職場でのいじめ・パワハラで自死に追いやられた21歳…
  • 8
    ワニに襲われた男性の「最期の姿」...捜索隊が捉えた…
  • 9
    吉野家がぶちあげた「ラーメンで世界一」は茨の道だ…
  • 10
    為末大×TAKUMI──2人のプロが語る「スポーツとお金」 …
  • 1
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で大爆発「沈みゆく姿」を捉えた映像が話題に
  • 2
    ワニに襲われた男性の「最期の姿」...捜索隊が捉えた発見の瞬間とは
  • 3
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...父親も飛び込み大惨事に、一体何が起きたのか?
  • 4
    突然ワニに襲われ、水中へ...男性が突いた「ワニの急…
  • 5
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門…
  • 6
    「飲み込めると思った...」自分の10倍サイズのウサギ…
  • 7
    夜道を「ニワトリが歩いている?」近付いて撮影して…
  • 8
    仕事ができる人の話の聞き方。3位は「メモをとる」。…
  • 9
    「やらかした顔」がすべてを物語る...反省中のワンコ…
  • 10
    砂浜で見かけても、絶対に触らないで! 覚えておくべ…
  • 1
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 2
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 3
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 4
    妊娠8カ月の女性を襲ったワニ...妊婦が消えた川辺の…
  • 5
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 6
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事…
  • 7
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 8
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 9
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
  • 10
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story