コラム

イランを生きる男女の深層心理を炙り出すアカデミー受賞作『セールスマン』

2017年06月05日(月)18時15分

物語は、国語教師のエマッドと妻のラナが暮らすアパートが、隣の敷地の強引な工事が原因で倒壊の危機にさらされ、夫婦が避難を余儀なくされるところから始まる。地元の小さな劇団に属している彼らは、団員の友人からアパートを紹介される。そこには前の住人の私物が残されていたが、早く落ち着きたい彼らは即決する。ところが、引っ越しを終え、劇団の舞台「セールスマンの死」が初日を迎えた夜、先に帰宅していたラナが、正体不明の侵入者に襲われ、病院に運ばれるという事件が起こる。

ファルハディ映画の緻密な構成

ファルハディの話術には共通点がある。まずある事件が起こり、そこから波紋が広がり、主人公たちはいつしか後戻りできない状況に陥っている。そんな流れのなかで重要な位置を占めるのは、事件そのものよりも波紋である。『彼女が消えた浜辺』では、エリに対する勝手な思い込みが波紋を広げる要因となり、登場人物たちの首を絞めていく。

新作『セールスマン』でも、勘違いやボタンの掛け違いが、波紋を広げていく。妻のラナは、インターホンが鳴ったときに夫だと思い込み、ドアを開けてからシャワーを浴びていた。訪ねてきた人物も、前の住人が引っ越したことを知らなかった。病院に駆けつけた夫のエマッドは、隣人から前の住人が"ふしだらな商売"を営む女性だったと知らされ、愕然とする。ラナは事件が表沙汰になることを望まず、穏便に済まそうとするが、意に反して噂が広まっていく。

この新作はこれまで以上に緻密な構成が際立つ。映画の冒頭でアパートが倒壊の危機に瀕したとき、エマッドは身体の不自由な隣人を背負って救い出す。それは共同体の親密な関係を物語っているように見える。だが、アパートの紹介と礼金をめぐるやりとりからは、異なる側面が見えてくる。団員の友人は礼金などいらないというが、夫婦は借りを作りたくないという思いから、無理してそれを払う。

この映画に登場する人々はみな、家族以外の他者と距離を置いている。さらにいえば、他者の視線を恐れ、表面的な関係を保っている。ファルハディは、勘違いに起因する事件によって、自分たちを守る壁が崩れ出したとき、人がどんな感情にとらわれ、どんな行動をとるのかを見極めようとする。

ラナは他者の視線の恐ろしさを思い知り、閉じこもってしまう。しかし、心理面でより大きな影響を受けるのは、むしろエマッドの方だ。彼は、侵入者が残していった金に屈辱を覚える。事件のことを隠そうとしても噂は広まり、自分が晒し者にされているような強迫観念にとらわれていく。ついには侵入者の正体を突き止めるために、前の住人の私物を漁り出す。そして、彼の目的はいつしか、同じ屈辱を侵入者にも味あわせることになっている。

ファルハディが盛り込んだ二重の皮肉

ではこれは、西洋文化にも親しむ世俗的な中流という見せかけが剥がれ落ち、イスラム的な男性性という本性が露になる物語なのだろうか。筆者には、ファルハディの作品には二重の皮肉が盛り込まれているように思える。

イラン出身の批評家ダバシは、前掲同書でイランを、「『国家』と呼ばれる人工的で無意味な構造のもとに押し込まれた、せめぎ合う『事実』の融合体」と表現している。それは、本質としては多文化的、多民族的で、宗教、思想など実に多様な要素をはらみながら、単一文化という認識を押し付けられていることを意味している。であるならばこれは、もともと脆弱な中流の基盤が崩れ、支配的な文化に取り込まれていく物語と解釈することができる。

さらにダバシは、イランにつきまとう違和感を以下のように表現している。


「私はこの違和感、他の場所で事が起こっているにもかかわらずふいに宙吊りにされ、本来いるべきではないところに据えられてしまった、という感覚を何としてでも捉え、伝えたいと思っている」

ファルハディもまた、独自の話術を駆使してそんな違和感を表現しようとしているように思えてくる。

《参照/引用文献》
『イラン、背反する民の歴史』 ハミッド・ダバシ 田村美佐子・青柳伸子訳(作品社、2008年)


タイトル:『セールスマン』
公開表記: 6月10日より、Bunkamura ル・シネマほか全国順次ロードショー!
コピーライト:
(C) MEMENTOFILMS PRODUCTION-ASGHAR FARHADI PRODUCTION-ARTE FRANCE CINEMA 2016

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

米中閣僚協議2日目、TikTok巡り協議継続 安保

ビジネス

無秩序な価格競争抑制し旧式設備の秩序ある撤廃を、習

ビジネス

英米、原子力協力協定に署名へ トランプ氏訪英にあわ

ビジネス

中国、2025年の自動車販売目標3230万台 業界
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:世界が尊敬する日本の小説36
特集:世界が尊敬する日本の小説36
2025年9月16日/2025年9月23日号(9/ 9発売)

優れた翻訳を味方に人気と評価が急上昇中。21世紀に起きた世界文学の大変化とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影...目覚めた時の「信じがたい光景」に驚きの声
  • 2
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる」飲み物はどれ?
  • 3
    科学が解き明かす「長寿の謎」...100歳まで生きる人に共通する特徴とは?
  • 4
    腹斜筋が「発火する」自重トレーニングとは?...硬く…
  • 5
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 6
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
  • 7
    電車内で「ウクライナ難民の女性」が襲われた驚愕シ…
  • 8
    【動画あり】火星に古代生命が存在していた!? NAS…
  • 9
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 10
    「週4回が理想です」...老化防止に効くマスターベー…
  • 1
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 2
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影...目覚めた時の「信じがたい光景」に驚きの声
  • 3
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれば当然」の理由...再開発ブーム終焉で起きること
  • 4
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 5
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる…
  • 6
    科学が解き明かす「長寿の謎」...100歳まで生きる人…
  • 7
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
  • 8
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 9
    埼玉県川口市で取材した『おどろきの「クルド人問題…
  • 10
    観光客によるヒグマへの餌付けで凶暴化...74歳女性が…
  • 1
    「4針ですかね、縫いました」日本の若者を食い物にする「豪ワーホリのリアル」...アジア出身者を意図的にターゲットに
  • 2
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 3
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果物泥棒」と疑われた女性が無実を証明した「証拠映像」が話題に
  • 4
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 5
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 6
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
  • 7
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 8
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれ…
  • 9
    プール後の20代女性の素肌に「無数の発疹」...ネット…
  • 10
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story