コラム

映画『オマールの壁』が映すもの(1)パレスチナのラブストーリーは日本人の物語でもある

2016年05月12日(木)11時45分

 日本語のタイトルは『オマールの壁』だが、映画のアラビア語のタイトルは「オマール」であり、英語のタイトルも同じだ。日本での映画の予告編では、イスラエルによる占領の過酷さを強調する内容となっている。しかし、映画を見てみれば、占領による抑圧と闘い、苦しむパレスチナの若者たちというパレスチナ問題を強調したテーマではなく、占領の下で繰り広げられるパレスチナの若者たちの恋愛や友情という人間的な葛藤が中心的なテーマとなっていることが分かる。イスラエル秘密警察のラミ捜査官との間でさえ、抑圧者、被抑圧者という関係だけでなく、人間的な葛藤の要素がある。

 アブ・アサド監督がこの映画に込めたメッセージを探ろうとして、彼のインタビューを探した。2014年春、この映画がアカデミー賞外国語映画賞の候補作に選ばれた後に、監督は、米国のナショナル・パブリック・ラジオ(NPR)で「この映画はラブストーリーであり、戦争のストーリーではない」と語っていた。「占領はパレスチナ人の生活のすべてに影響している。しかし、占領はいつか終わるが、それでこの映画の命が絶えるものではない。私は占領を人々が生きる背景として使っているが、扱っているのは、友情や愛、信頼と裏切りなど普遍的な感情である。この映画の物語は、占領がなくても、世界のどこでも起こり得る」と続けた。

 この映画を見て、アブ・アサド監督が『パレダイス・ナウ』について語った言葉を思い出した。「イスラエルは武器という文明の醜い産物を使って我々を抑え込む。力では対抗できない。私は映画という文明の美しい産物を生み出すことで抵抗し、生き延びるのだ」という言葉だ。

【参考記事】「名前はまだない」パレスチナの蜂起

『オマールの壁』はパレスチナの「ロミオとジュリエット」だという評がある。ミュージカルの『ウエスト・サイド物語』や映画『タイタニック』など数多つくられてきた分断される恋人たちの悲しいラブストーリーの系譜に、イスラエルの占領で分断されるパレスチナで生まれた『オマールの壁』を見ることも可能だろう。オマールがナディアに会うために、コンクリート壁にぶら下がったロープをつかんでよじ登るシーンに、ジュリエットのいるバルコニーの部屋までツタを上るロミオを見ることもできるだろう。

 私は『オマールの壁』に、パレスチナ解放という政治に還元される「パレスチナ映画」ではなく、政治から映画を解放しようする監督の意図を見る。パレスチナの政治の混迷や不毛のなかで、人間を解放しようとする意図ともなる。後編では、この映画における政治との関係を考えてみよう。

※映画『オマールの壁』が映すもの(2)不毛な政治ではなく人間的な主題としてのパレスチナ問題

プロフィール

川上泰徳

中東ジャーナリスト。フリーランスとして中東を拠点に活動。1956年生まれ。元朝日新聞記者。大阪外国語大学アラビア語科卒。特派員としてカイロ、エルサレム、バグダッドに駐在。中東報道でボーン・上田記念国際記者賞受賞。著書に『中東の現場を歩く』(合同出版)、『イラク零年』(朝日新聞)、『イスラムを生きる人びと』(岩波書店)、共著『ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか』(集英社新書)、『「イスラム国」はテロの元凶ではない』(集英社新書)。最新刊は『シャティーラの記憶――パレスチナ難民キャンプの70年』
ツイッターは @kawakami_yasu

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

北朝鮮、黄海でミサイル発射実験=KCNA

ビジネス

根強いインフレ、金融安定への主要リスク=FRB半期

ビジネス

英インフレ、今後3年間で目標2%に向け推移=ラムス

ビジネス

米国株式市場=S&Pとナスダック下落、ネットフリッ
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:老人極貧社会 韓国
特集:老人極貧社会 韓国
2024年4月23日号(4/16発売)

地下鉄宅配に古紙回収......繁栄から取り残され、韓国のシニア層は貧困にあえいでいる

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 2

    止まらぬ金価格の史上最高値の裏側に「中国のドル離れ」外貨準備のうち、金が約4%を占める

  • 3

    中国のロシア専門家が「それでも最後はロシアが負ける」と中国政府の公式見解に反する驚きの論考を英誌に寄稿

  • 4

    休日に全く食事を取らない(取れない)人が過去25年…

  • 5

    「韓国少子化のなぜ?」失業率2.7%、ジニ係数は0.32…

  • 6

    ハーバード大学で150年以上教えられる作文術「オレオ…

  • 7

    日本の護衛艦「かが」空母化は「本来の役割を変える…

  • 8

    中ロ「無限の協力関係」のウラで、中国の密かな侵略…

  • 9

    毎日どこで何してる? 首輪のカメラが記録した猫目…

  • 10

    便利なキャッシュレス社会で、忘れられていること

  • 1

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 2

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なない理由が明らかに

  • 3

    攻撃と迎撃の区別もつかない?──イランの数百の無人機やミサイルとイスラエルの「アイアンドーム」が乱れ飛んだ中東の夜間映像

  • 4

    天才・大谷翔平の足を引っ張った、ダメダメ過ぎる「無…

  • 5

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 6

    アインシュタインはオッペンハイマーを「愚か者」と…

  • 7

    犬に覚せい剤を打って捨てた飼い主に怒りが広がる...…

  • 8

    ハリー・ポッター原作者ローリング、「許すとは限ら…

  • 9

    価値は疑わしくコストは膨大...偉大なるリニア計画っ…

  • 10

    大半がクリミアから撤退か...衛星写真が示す、ロシア…

  • 1

    人から褒められた時、どう返事してますか? ブッダが説いた「どんどん伸びる人の返し文句」

  • 2

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 3

    88歳の現役医師が健康のために「絶対にしない3つのこと」目からうろこの健康法

  • 4

    ロシアの迫撃砲RBU6000「スメルチ2」、爆発・炎上の…

  • 5

    バルチック艦隊、自国の船をミサイル「誤爆」で撃沈…

  • 6

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 7

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 8

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 9

    1500年前の中国の皇帝・武帝の「顔」、DNAから復元に…

  • 10

    浴室で虫を発見、よく見てみると...男性が思わず悲鳴…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story