コラム

アントニオ猪木、歴史に埋もれたイラクでの「発言」

2022年11月14日(月)13時10分

当時、イラクはクウェート在住の西側主要国の国民を人質にとって、戦略的要衝に配置していた(ちなみに、日本人は欧米人以外では唯一、人質になった外国人だった)。イラクはこの外国人の人質たちを「イラクの客人」と呼んでいたが、明らかに「人間の盾」として利用されているだけであった。

西側諸国としてはイラクのクウェート侵攻を断固非難し、制裁を科した手前、イラクを利するようなかたちで人質解放の交渉をすることができなかった。そのため、政府関係者に代わってさまざまな要人にイラクにいってもらって、イラク側と(場合によってはイラクへのお土産をちらつかせ)交渉してもらっていた。

日本の場合も、自民党、公明党、社会党(当時)などが解放交渉のためにイラクに代表団を送っていた。猪木は当時、スポーツ平和党の参議院議員だったので、そうした政治家と同じ枠組でイラクにやってきたのである(ただし、議員の枠に収まりきらないかたも同行していたが)。

しかし、実際に人質の部分解放にまでこぎつけたのは稀で、成功例は中曽根元首相と猪木ぐらいであった。

そして猪木はシーア派のイスラーム教徒になった

ただ、インターネット上に散らばった情報をみるかぎり、正確な情報は少なく、なかには猪木の努力で日本人人質が全員解放されたといったものまであった。

実際には猪木の尽力で帰国が可能になった日本人は41人で、その後、サッダーム・フセインの「クリスマスプレゼント」で155人の日本人が帰国している。また、その1か月前には中曽根元首相がサッダームに直談判して、74人を帰国させることに成功していた。

そこで、アントニオ猪木逝去を悼む意味を込めて、日本のメディアの訃報のなかでほとんど触れられていなかったことを中心に、イラクにおける彼の行動の一端を紹介してみたい。

以下は1990年9月22日付イラーク紙から取った記事の一部である(11ページ)。

20221114inoki-2.png

al-'Irāq, Aylūl 22, 1990, ṣ.11


「日本の国会議員、カルバラーの聖廟を訪問し、イスラームへの入信を発表」
カルバラー・バービル発イラク国営通信
日本の国会の外交委員会メンバーでスポーツ平和委員長(ママ)であるアントニオ猪木氏は昨日、カルバラー県を訪問、文化的な発展を目の当たりにすることとなった。
カルバラー県知事のガージー・ムハンマド・アリー氏は日本の客人を迎えて、サッダーム・フセイン大統領の支援と指示による同県の開発計画を披露した。日本の客人は、自ら目撃した同県、とくに聖廟における包括的な発展に驚きを示した。そこで彼は、イマーム・フセインとその弟、アッバース――2人の上に平安あれかし――の廟を訪ねたとき、イスラームへの入信を明らかにした。

記事ではこのあと、猪木がバービル県を訪問したことに触れているのだが、それについては割愛する。

カルバラーはイラク中部に位置し、イスラームの少数派であるシーア派の、もっとも重要な聖地の一つだ。他方、イマーム・フセインとは、イスラームの預言者ムハンマドの孫、第4代正統カリフ(イスラーム共同体の聖俗両権の長)で、シーア派の初代イマーム(シーア派の最高指導者)であるアリーの息子、そして第2代(あるいは第3代とも)のイマームでもある。

プロフィール

保坂修司

日本エネルギー経済研究所中東研究センター研究顧問。日本中東学会会長。
慶應義塾大学大学院修士課程修了(東洋史専攻)。在クウェート日本大使館・在サウジアラビア日本大使館専門調査員、中東調査会研究員、近畿大学教授、日本エネルギー経済研究所理事・中東研究センター長等を経て、現職。早稲田大学客員上級研究員を兼任。専門はペルシア湾岸地域近現代史、中東メディア論。主な著書に『乞食とイスラーム』(筑摩書房)、『新版 オサマ・ビンラディンの生涯と聖戦』(朝日新聞出版)、『イラク戦争と変貌する中東世界』『サイバー・イスラーム――越境する公共圏』(いずれも山川出版社)、『サウジアラビア――変わりゆく石油王国』『ジハード主義――アルカイダからイスラーム国へ』(いずれも岩波書店)など。

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