【歴史解説】核開発は当然「国家の権利」...米・イランの確執の原因「攻防の歴史」を振り返る
A Durable Nuclear Deal
多くの人々の予想に反して、イランは99年夏までにウラン濃縮の技術を習得し、以来、着実にその能力を伸ばしてきた。イランの核開発は、西側諸国から経済・貿易面での譲歩を引き出すための交渉の切り札でもあった。
相互の妥協が交渉に必要
イランに求めていることが実現不可能であることをアメリカが認識するまでには長い時間を要した。クリントン政権も、イランの核開発を断固として拒否した。当時の国務長官ウォーレン・クリストファーは95年5月に、「アメリカは(イランの)核開発計画全体を終わらせるべきだと考える」と断言している。
その後、ジョージ・W・ブッシュ大統領の下で安全保障問題担当補佐官を務めたコンドリーザ・ライスは、ウラン濃縮ゼロは譲れないとしつつも、アメリカはイランの核開発計画に譲歩せざるを得ないと認めた。
外交的解決策が見いだされたのは、バラク・オバマ大統領が、アメリカは濃縮ゼロを要求することはできないし、ましてや核開発の放棄を要求することなどできないと認識したときだった。
それでもアメリカには強硬派の論客が多く、イランの核開発計画の完全な解体、いわゆる「リビア・モデル」を求める声が根強くある。
イラン政府からすれば、このような条件への同意は無条件降伏に等しい。だからどうしてものめない。