最新記事

医療援助

いとうせいこう、ハイチの『国境なき医師団』で非医療スタッフの重要さを知る(7)

2016年7月14日(木)16時45分
いとうせいこう

夜の音楽

 その日は休息した。片づけを手伝ったり仮眠したり、マタンと話したりして夜になった。

 19時過ぎにダイニングで昼のごちそうの残りを食べていると、二人の白人壮年女性が大きな荷物を持ってがやがやと入ってきた。翌日から現地の医療スタッフ向けに新生児ケアの研修を行うというオランダ人の二人組だった。どちらもがたいのいい、パワフルな女性で、プントヘンリエッタと言った。

 「空港からここに来る途中、街中に音楽が鳴っていて凄かったわよ。人が踊ってて」
 特に強そうなヘンリエッタさんがポールに説明した。


「ああ、イースターだからね」

 そう答えたポールだったが、彼自身はさして興味がなさそうだった。

 むしろ興奮したのは俺で、山の上にさえいなければブードゥー的な儀礼の様子が見られたのにと思った。すると、確かに山の遠くから歓声のようなものがうっすら聴こえるのがわかった。

 俺はスマホを持って屋敷を飛び出した。打楽器の音が響いていた。男たちが声を合わせて何か歌っていて、時にそれが高まって怒号のようになった。近くの村でも儀式は行われていた。暗い庭の中で、俺は壁へ壁へと近づいていき、夜の闇にスマホを高くかざした。録音したいのだった。

 警備の面々は何だと思っていたことだろう。闇に舞う蝶でも捕まえるような仕草と集中力で、俺は右手を空にかざし続けていたのだ。

 耳にはっきり聴こえていた音は、スマホにはまったく録れていなかった。
 そのハイチのイースターの、日本の祭りの最高潮にも似た歓声は。

「空港倉庫」

 翌28日、6時15分の定期便(四駆)でコーディネーション・オフィスへ行き、そこで車を乗り換えてポルトー・プランスの北部にあるMSFの倉庫へ行った。「空港倉庫」と言うのがおそらく正式名だが、例のコードネームのシステムでは小粋な名が付いていた。だが、それが書けない。悔しい。

 「ようこそ、○○○へ」
 俺たちを招いてくれたマタン(コンゴ民主共和国出身)が、巨大な倉庫の入り口でそう言った。物資調達の担当をしているのが彼だった。

 中に入ると天井までの高い棚が、びっしりと並んでいた。そこにありとあらゆる物資が積み込まれていた。例えば、コレラ対策用のマスクがダンボールいっぱいになり、テントがたたまれており、清潔な飲み水、消毒液、緊急時の食料、注射器、手術用手袋、乾電池、毛布、ベッドカバーなどなどが、それぞれプロジェクト名と共に整理されている。

 通常はサプライチームが全面的に管理する物資なのだそうだが、ハイチではプロジェクトが各々、必要な物を出し入れ、管理しているらしかった。それだけ事態が複雑なのかもしれない。

 薬剤に関しては、インドから運ばれたものが多いことも聞いた。現在インドは公衆衛生保護のため、特許の付与について他国よりも厳しい条件を設けている。これがジェネリック薬の健全な市場競争を実現していて、「途上国の薬局」とも言われているのだそうだ。

 なぜこの情報が書かれるべきかと言えば、MSFは常に品質が安定し、かつ適正な価格の薬やワクチンを必要としているからだ。途上国にとって、また全資金の約 90%を寄付で運営しているMSFにとって、先進国向けの先発薬は極めて高価なのだ。


一人でも多くの命を救うため、ジェネリック薬の供給は欠かせないのである。

<インドの重要性についてはこちら

ito4.jpg

(倉庫の中、リフトが走り回る)

 簡素な鉄階段で二階へ行くと、ベニヤで仕切られた部屋にオフィスがあり、各病院の古いカルテがしまわれた場所などがあった。様々な部屋を見せてもらっていた俺だが、覚えているのはむしろ倉庫のどこかで小猫の声がしたことばかりだ。

 結局ウミネコらしいことがあとでわかるが、その時の俺は迷い猫をなんとかしてやりたい気持ちでいっぱいになった。衛生の観点からも、動物愛護の観点からも、俺はそのへんをゆるがせに出来なかった。

 やがて倉庫の入り口で始まった朝礼で、マタンから十数人の職員に紹介してもらうと、すぐに俺は中へ取って返した。小猫はどこだ、どこに入り込んでしまっているのだ、もっと言えばどんな柄の、どんなかわいいやつなのだ、ハイチの猫ってやつは。

 朝礼のおかげで広い倉庫には誰もいなかった。
 おまけに鳴き声も急にやんでいた。

 こうして見つかることのない猫を探して倉庫の中を一人で歩き回る俺は、大きな目的を忘れてすっかり別世界に入り込んでいた。

 つまり、迷っているのは猫でなく俺なのだった。

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ワールド

マスク氏、第3政党始動計画にブレーキ=WSJ

ワールド

米大豆農家、中国との購入契約要請 トランプ氏に書簡

ワールド

韓国は「二重人格」と北朝鮮の金与正氏、米韓軍事演習

ワールド

トランプ政権、ワシントン検事局に逮捕者のより積極的
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:台湾有事 そのとき世界は、日本は
特集:台湾有事 そのとき世界は、日本は
2025年8月26日号(8/19発売)

中国の圧力とアメリカの「変心」に危機感。東アジア最大のリスクを考える

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに感染、最悪の場合死亡も
  • 2
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人」だった...母親によるビフォーアフター画像にSNS驚愕
  • 3
    「死ぬほど怖い」「気づかず飛び込んでたら...」家のプールを占拠する「巨大な黒いシルエット」にネット戦慄
  • 4
    【クイズ】2028年に完成予定...「世界で最も高いビル…
  • 5
    広大な駐車場が一面、墓場に...ヨーロッパの山火事、…
  • 6
    頭部から「黒い触手のような角」が生えたウサギ、コ…
  • 7
    「自律神経を強化し、脂肪燃焼を促進する」子供も大…
  • 8
    【クイズ】沖縄にも生息、人を襲うことも...「最恐の…
  • 9
    時速600キロ、中国の超高速リニアが直面する課題「ト…
  • 10
    「何これ...」歯医者のX線写真で「鼻」に写り込んだ…
  • 1
    「自律神経を強化し、脂肪燃焼を促進する」子供も大人も大好きな5つの食べ物
  • 2
    将来ADHDを発症する「幼少期の兆候」が明らかに?...「就学前後」に気を付けるべきポイント
  • 3
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに感染、最悪の場合死亡も
  • 4
    頭部から「黒い触手のような角」が生えたウサギ、コ…
  • 5
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 6
    「笑い声が止まらん...」証明写真でエイリアン化して…
  • 7
    「死ぬほど怖い」「気づかず飛び込んでたら...」家の…
  • 8
    「長女の苦しみ」は大人になってからも...心理学者が…
  • 9
    【クイズ】次のうち、「海軍の規模」で世界トップ5に…
  • 10
    「何これ...」歯医者のX線写真で「鼻」に写り込んだ…
  • 1
    「週4回が理想です」...老化防止に効くマスターベーション、医師が語る熟年世代のセルフケア
  • 2
    こんな症状が出たら「メンタル赤信号」...心療内科医が伝授、「働くための」心とカラダの守り方とは?
  • 3
    「自律神経を強化し、脂肪燃焼を促進する」子供も大人も大好きな5つの食べ物
  • 4
    デカすぎ...母親の骨盤を砕いて生まれてきた「超巨大…
  • 5
    デンマークの動物園、飼えなくなったペットの寄付を…
  • 6
    ウォーキングだけでは「寝たきり」は防げない──自宅…
  • 7
    山道で鉢合わせ、超至近距離に3頭...ハイイログマの…
  • 8
    将来ADHDを発症する「幼少期の兆候」が明らかに?...…
  • 9
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
  • 10
    イラン人は原爆資料館で大泣きする...日本人が忘れた…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中