最新記事

ハイチ

いとうせいこう、『国境なき医師団』を見に行く3 (ポール校長の授業)

2016年6月7日(火)15時30分
いとうせいこう

 途中、ユーモラスな表情でモハマドが俺の背後を指さした。ガサガサ音がして、枯れ葉の中を大きなトカゲが通るのがわかった。そのトカゲにさえ気をつける必要があるのかと俺は思ったが、毒があるのかとか噛むのかとか確認するのはためらわれた。我ながらナーバスになり過ぎているのではないかと思って。

itou0606b.jpg

(危険区域を説明するモハマド。ほとんどすべてのエリアがそうだった)

 次に邸内に戻り、フランスから来ているマリーン・バーセットという女性看護師にレクチャーを受けた。主に妊産婦のこと、未熟児のこと、性暴力被害のことなどについてだが、これらに関してはのちのち病院や救援センターを訪ねたレポートを書く予定なので重複を避ける。ともかく、医療コーディネーターを務めるマリーンはハイチの様々な状況を説明しては苦笑し、何度か頭を振った。
 「ひどい話」
 と言いながら。確かに残酷なデータが多かった。やせ型でめがねをかけ、ノースリーブから出した肩にそばかすが見えているマリーンは少し疲れているように感じられた。

 そろそろ宿舎に移動しようということになった。彼女も同じ宿舎で生活しているので、ひとつの四駆に乗っていきましょうと言われた。
 帰り支度を始めた彼女に、
 「あなたは看護師ですよね? 何をきっかけにMSFに参加したんですか?」
 と聞いてみた。

 今回、会う人ごとに投げかけようと思っていた質問だった。
 すると、マリーンは初めて柔和に、そして恥ずかしげに微笑み、フランス訛りの英語でこう答えた。


 「逆よ。MSFに入りたくて看護師になったの」

 理解に一瞬時間がかかり、そのあとジーンとシビれてしまった俺をしりめに、マリーンはバッグにすべてを詰め終え、立ち上がって薄暗い部屋から明るみへと出ていった。

宿舎にて

 マリーンとポールと谷口さんと四人で「帰った」宿舎は、センターから車で15分くらい登った山の邸宅群の中にあった。

 狭く急な坂道沿いの宿舎の鉄扉が開き、四駆が中の斜面をぐらぐら上がっていくと、山肌に庭があり、芝生が生え、たくさんの木が伸び、屋敷のあちこちからブーゲンビリアが赤く垂れて咲いているのが見えた。まるで優雅な別荘のようで、俺は自分の目が信じられなかった。

 しかし二階建てのそこに多くの部屋があり、シャワー施設やトイレが複数存在し、キッチンが充実していること、あるいは鉄扉の入り口脇にガードマン(ただし丸腰。MSFの施設に入るにはあらゆる武器が放棄されねばならない)の小屋のスペースがあることなどを思えば、確かに次々交替していくスタッフの拠点として適していた。おそらく借り賃も手頃なのだろう。ポールの見積もりかもしれない。

 そして何より、よく見てみれば、庭を囲む塀の上には厳重に鉄条網が巻かれていた。内部は「優雅」だが、少しでも外に出れば「緊張」が支配しているのだ。

itou0606d.jpg

 部屋をもらい、入っていくとタイル床の真ん中に四角いベッドがあり、その上にピンク色の蚊帳が吊ってあった。窓際には簡素なテーブル。その上でカーテンが半分閉じられていたが、窓の上の左右に飛び出た木枠に棒が渡され、そこにカーテンの輪っかが幾つか通されているだけなので、気をつけて操作しないと落ちてきた。

 蚊は大敵だった。特にその頃はデング熱に注意しなければならなかった。
 俺は待ち合わせまで二時間あったのでスマホに話しかけて目覚まし時計のアプリをセットし、出発直前までピンクの蚊帳の 中で仮眠することにした。

 すぐに眠気は来た。しかしコール音で起こされたのは感覚的にわりとすぐで、まるで泥の海から立上るようにして俺は覚醒せざるを得なかった。時差ボケがなぜこんなにひどいのかと、ベッドに腰をかけたまま、何度も腕時計とスマホを見比べた。胃がムカムカしていた。

 宿舎到着の直後に、ポール校長が言っていたことを思い出した。
 今はサマータイムなのだけれど、それを海外に宣言するのが遅れただか、しなかっただかで、非常にローカルな形でハイチ時間が進んでおり、つまり飛行場で教わって直した腕時計の時間と、WIFIでつないでいるスマホの世界時計上の時間がちょうど一時間違っているのだった。

 俺はぐらぐらする頭でそのまま起き、シャワーを浴びたように記憶する。
 そして部屋のドアにふたつあった錠をロックしてみようと思いつき、テーブルの上にあったカギを下に入れ、上にも入れた。通常どちらかしかかからないカギが、なぜだろう下にかかったまま、上にもかかった。上の錠の奥の方におかしな感触があったから、あり得ないことを起こしたのは上だろうと思われた。

 俺は自分の部屋から締め出された。
 カギをいくら再び錠の中で回してもびくともしない。
 そのままだとどう困るかを、薄暗い屋敷の中で考えた。まずメモ帳がない。数日となると着替えもなく、帰国時のパスポートも飛行機のウェブ予約を印刷した紙も中だった。次第に俺は、自分が窮していくだろうことがわかった。

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ビジネス

米加州の2035年ガソリン車廃止計画、下院が環境当

ワールド

国連、資金難で大規模改革を検討 効率化へ機関統合な

ワールド

2回目の関税交渉「具体的に議論」、次回は5月中旬以

ビジネス

日経平均は続伸で寄り付く、米国の株高とハイテク好決
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
特集:英語で学ぶ 国際ニュース超入門
2025年5月 6日/2025年5月13日号(4/30発売)

「ゼロから分かる」各国・地域情勢の超解説と時事英語

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に高く、女性では反対に既婚の方が高い
  • 2
    マリフアナを合法化した末路とは? 「バラ色の未来が来るはずだったのに...」
  • 3
    タイタニック生存者が残した「不気味な手紙」...何が書かれていた?
  • 4
    ウクライナ戦争は終わらない──ロシアを動かす「100年…
  • 5
    インド北部の「虐殺」が全面「核戦争」に発展するか…
  • 6
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新…
  • 7
    日々、「幸せを実感する」生活は、実はこんなに簡単…
  • 8
    悲しみは時間薬だし、幸せは自分次第だから切り替え…
  • 9
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」では…
  • 10
    クルミで「大腸がんリスク」が大幅に下がる可能性...…
  • 1
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 2
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 3
    MRI検査で体内に「有害金属」が残留する可能性【最新研究】
  • 4
    中国で「ネズミ人間」が増殖中...その驚きの正体とは…
  • 5
    ロシア国内エラブガの軍事工場にウクライナが「ドロ…
  • 6
    日本の未婚男性の「不幸感」は他国と比べて特異的に…
  • 7
    パニック発作の原因の多くは「ガス」だった...「ビタ…
  • 8
    マリフアナを合法化した末路とは? 「バラ色の未来…
  • 9
    使うほど脱炭素に貢献?...日建ハウジングシステムが…
  • 10
    私の「舌」を見た医師は、すぐ「癌」を疑った...「口…
  • 1
    【話題の写真】高速列車で前席のカップルが「最悪の行為」に及ぶ...インド人男性の撮影した「衝撃写真」にネット震撼【画像】
  • 2
    日本史上初めての中国人の大量移住が始まる
  • 3
    日本旅行が世界を魅了する本当の理由は「円安」ではない
  • 4
    健康寿命を伸ばすカギは「人体最大の器官」にあった.…
  • 5
    【心が疲れたとき】メンタルが一瞬で “最…
  • 6
    間食はなぜ「ナッツ一択」なのか?...がん・心疾患・抜…
  • 7
    北朝鮮兵の親たち、息子の「ロシア送り」を阻止する…
  • 8
    【クイズ】世界で最も「半導体の工場」が多い国どこ…
  • 9
    クレオパトラの墓をついに発見? 発掘調査を率いた…
  • 10
    中居正広は何をしたのか? 真相を知るためにできる…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中