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インド

シン首相が仕掛けるインド版ビッグバン

2009年7月8日(水)16時27分
ジェーソン・オーバードーフ、スディブ・マズムダル(ニューデリー支局)

 ただシンの100日の課題は貧困層だけを対象としているわけではない。国有企業株の売却のように、銀行家たちが長い間求めてきた論争のある政策もある。シン自身は「財務大臣が予算を組むなかで取り組む」と言っただけだが、07年に一旦決定しながら左派の反対で頓挫していた、石油探査会社オイル・インディアと水力発電公社(NHPC)の政府保有株放出は最優先課題の1つだ。

 石油業界の規制緩和策も、ガソリン価格が上がるという理由で左派が反対してきたが、6~8週間以内に内閣に提出される予定だ。電力省は8月末までに5600メガワットの電力供給増を約束し、タミルナド、グジャラート、オリッサの各州で100日以内に4000メガワット規模の発電所の建設計画を発表するとした。

 投資家もサインを読み取り、5月には40億ドル以上をインドの株式市場に投じ、代表的なSENSEX株価指数は28%上昇した。

 打ち出した改革案の過激さとは裏腹に、それを推し進めるシンは至って謙虚で物腰柔らかな人物だ。公の場でも真ん中にしゃしゃり出ず、ほかの人にマイクを譲る姿が目に付く。

 選挙戦ではインド史上最も弱い指導者とたたかれたが、演説や根回しが苦手なことなどの弱点を政治家としての強みに変えることに成功した。下院議員の4人に1人が刑事告発もしくは刑事捜査の対象になっている国で、「嘘をつかない男」というシンの名声は際立っている。いかなる政治スキャンダルでもシンの名前が取り沙汰されたことはない。

 手柄を吹聴せず、政治的駆け引きを拒む姿勢のおかげで、国民に愛されており、公平な人物という評判も確立している。このイメージはこれまで合意を取り付ける際に役立ってきたし、改革プランを実行に移していく上でも武器になるだろう。「省庁間や閣僚間に対立が持ち上がったとき、いつも非常にうまく仲裁してきた」と、カマル・ナット道路輸送・高速道路相は言う。

 首相として国の舵を取る上で大きな武器がほかにもある。エコノミスト出身で中央銀行総裁や財務相を歴任したシンには、今とりわけ必要とされている経済の知識がある。「ほかの政治家は誰かに説明してもらい、それを苦労して理解しなければならないが、首相はほかの人たちに説明ができる。世界の指導者で首相ほど経済をよく理解している人物はいないだろう」と、ナットは言う。

 シンの人柄や知識と同じくらい大きいのは、インド建国の父ジャワハルラル・ネールに連なる名門政治一族の継承者であるソニアとラフルのガンジー母子から強力な支持を受けていることだ。現在は、ソニアとラフル、シンの3人のトロイカ体制で、国民会議派とインド政治を動かしている。

「シン降ろし」封じたガンジー母子

 3人の役割分担がはっきりしているので、シンは手足を縛られることなく、むしろ大きな力を振るっている。国民会議派内の派閥争いの封じ込めはソニアが担当し、草の根支持層の再建はラフルが担当。シンは政策の遂行に専念できている。

 国民会議派のトロイカ体制は今回の総選挙でも強みを発揮した。内紛に揺れるライバルのインド人民党(BJP)と対照的に、ソニアとラフルは党内の「シン降ろし」の動きを抑え込み、シンに代わって選挙運動で各地を駆け回り、野党の攻撃からシンを守った。

 04年、国民会議派は選挙で勝利したが、党総裁のソニアはイタリア生まれであることを攻撃されて首相就任を断念。そのとき代わりに首相に押し立てたのがシンだった。それ以来、2人は相互の信頼と敬意で結ばれてきた。この強い絆は、やがてラフルがトップに立つときにも役立つだろう。

「シンがソニアを必要としているのと同じくらい、ソニアもシンを必要としている。コンビは非常にうまく機能している」と、国民会議派のある有力者(匿名を希望)は言う。

 シンをソニアの操り人形と批判する人もいるが、それは事実に程遠い。08年にインドがアメリカとの原子力協力協定を推し進めたときのこと。国内では反対論が強かったが、インドの国際的孤立に終止符を打ち、国際社会での影響力を強めるために必要だと、シンはソニアを説き伏せた。ある元側近によれば、その際シンは辞任をちらつかせて説得したという。

 トロイカ体制の3人のリーダーは相違点が多いように見えるが、実は共通点も多い。マイノリティーへの思いやりもその1つだ。シンはシーク教徒、ソニアはキリスト教徒、ラフルの祖父はもともとゾロアスター教徒だった。3人はBJPのヒンドゥー教至上主義的発想を嫌悪している。

 礼儀正しく謙虚なところも3人の共通点だ。この点は、3人が国民に愛されている大きな理由でもある。インドの国民は傲慢な政治家にうんざりしている。

 選挙で勝利を収めた今、国民会議派のトロイカにとって大きな課題は、大きく膨らんだ期待にどうやって応えるかだ。

 インドの政治システムは植民地時代そのままに非効率的だし、改革に抵抗する官僚機構との戦いも待っている。国民会議派内の抵抗勢力は、シンとガンジー母子が推し進める改革と党の民主化を妨害しようとするに違いない。

 実際には、100日以内にすべてを成し遂げなくてはならないわけではない。シンが100日という期限を設定しているのは、政権を引き締めるためという面も大きい。しかし悠長に構えていられないのも事実だ。シンの両肩には重い責任がのしかかっている。

 いま大きなチャンスを手にしているのは、国民会議派だけではない。インドという国全体にとって大きなチャンスが訪れている。もしこの好機を生かせなければ、国民会議派だけでなく、インド全体に、そして何よりインドの国民に大きな損害が及ぶ。

[2009年6月17日号掲載]

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