ドラマ版『エイリアン』には『ブレードランナー』的な魅力が――リドリー・スコットのDNAを継ぐ「非情」の世界
Mean and Honest Alien Franchise
これを忘れることは『エイリアン』の世界では大罪。どの作品でも、物語を動かすのは人間の傲慢だ。
宇宙の生物を理解し兵器に転用できると考える思い上がり。宇宙のかなたで祖先は人類との対話を望んでいるという思い込み。世界を意のままにする富裕層なら、死も回避できるという幻想。
『アース』はこの陰鬱な人間観を前提として、人間の意識を人工の体に移植した「ハイブリッド」の子供たちに問いかける。君たちは人間のおごりを理解できるのか。地球に帰属意識を持てるのか。
ともすればシリーズの根幹にあるペシミズムは浅薄にも見える。別の生き物が人類を一掃してくれればと願う、虚無的ダーウィン主義として片付けたくなる。だがそこには物悲しさもにじむ。
『エイリアン』は、意識ある存在として生きることの素晴らしさと恐ろしさを忘れたときに人はどうなるか、自分の持つ主体性を他者に認めなくなったときにどんな悲劇が起きるかを一貫して描いてきた。命への敬意を失ったら人間は破滅すると、主張してきた。
こうしたテーマをおとぎ話のレンズに通して見せるのが、『アース』だ。