演技は悪くないが、今なぜコレ?──「置いてけぼり感」だけが残る迷走映画の是非
Stylish but Tepid
ここから先はこの映画を既に見た人か、ネタバレを気にしない人に読んでほしい。
ジャックがビクトリー・プロジェクトで出世するにつれ、アリスは自宅の壁が自分に迫ってくるような錯覚など、奇妙な遁走状態を経験しだす。それがアリスのトラウマによる幻覚なのか、なんらかのマインドコントロールなのかは、観客にも判断できない。
やがて、ビクトリーで起こることは全て大掛かりなコンピューター・シミュレーションの一部であることが明らかになる。いつもはやりのスーツと髪形で決めたジャックも、現実の世界ではくたびれたパーカを着て無精ひげをたくわえている。
現実の世界のアリスは、そんなジャックの横で目をぱっちり開けた状態でベッドに拘束されている。2人の意識はどういうわけか、砂漠のパラダイスにいるデジタル版の2人に送信されている。
「どういうわけか」は、この映画の後半を説明するのに欠かせない言葉だ。だいたいフランクが、なぜカルト教団の教祖のようなまねをしているのか分からない。
一度だけ、男女の役割を「自然な状態」に戻したいというフランクとアリスが意見を戦わせる場面があるが、その後2人がまともに交流するシーンはない。
映画の終盤で、なぜ多くの女性が突然「目覚める」ようになるのかも分からない。フランクがどこかでビクトリーの野望を説いてくれるとよかったのだが、それもない(パインの演技力なら見事なシーンになっただろう)。フランクの扱いは、この映画で最も残念な部分の1つだ。
おかげで本作には、「は?」と思うシーンがてんこ盛りだ。アリスとジャックの関係が変わっていく理由も全く分からない。アリスは幻覚をたくさん見るのだが、その意味も理由も明らかにされない。
それは映画の最後の最後まで続く。確かにアートの世界は、なんでも言葉で説明すればいいというものではない。だが、いくらなんでもこれはないのではないか。観客には、とてつもない「置いてけぼり感」が残るエンディングだ。
しかし、ストーリーの矛盾(あるいは欠陥)もさることながら、最大の問題はその設定にある。ビクトリーに暮らす主婦たちの閉塞感と、アリスの目覚めはフェミニズムを感じさせるが、この設定は2022年のジェンダー政治に全く居場所がない。