最新記事
シリーズ日本再発見

ドイツには「蛾」がいない?...私たちの「心」すら変えてしまう「言葉の力」とは

2024年01月20日(土)10時10分
平野卿子(ドイツ語翻訳家)
蝶

Candy_Plus-shutterstock

<ドイツ人の友人が「蝶々よ」と言っていたのは、なんと「蛾」だった...。私たちの思考や判断は「言葉」に左右されている>

1970年代にドイツの友人の家に遊びに行ったときのこと。リビングでおしゃべりしていると、黄土色の大きな蛾が飛び込んできた。思わず顔をしかめたわたしのそばで、なんと友人は大喜びで自分の娘を呼んだのだ。

「ねえ、来てごらん! シュメッタリング(Schmeterling/蝶々)よ」

「これは蝶々じゃないわよ。きれいじゃないもの」と、びっくりしてわたしが言うと、友人は「あら」と言って続けた。「これはね、あんまりきれいじゃないほうの蝶々なの」


その時はじめてわたしは、ドイツ語では蝶と蛾の区別がなく、彼らがその両方とも蝶々と呼ぶことを知ったのである。母娘に笑顔で迎えられた「あんまりきれいじゃないほう」は、心なしか堂々として見えたのを覚えている。

これはドイツだけなのかと思ったら、フランスでも同じだという。フランス語の「papillion(パピヨン)」も蝶と蛾の両方を意味する。あるものをあらわすのに言葉がないということは、その対象に対する関心のなさと関係がある。『昆虫記』で有名なファーブルがフランスの人だと思うと、いささか意外な気がしないでもないが。

ただ、セミだけは別で、南仏のリゾート地プロヴァンスではシンボルマークになっている。フランスではセミは南部にしかいないため、夏のバカンスのイメージも手伝って人気があるらしい。

いっぽう日本では源氏物語に「空蝉」「蛍」「蜻蛉」「胡蝶」の4帖あることでもわかるように、虫は古くから愛でられていた。日本人は「虫めずる人々」なのである。

わたしたちはあらゆる面で言葉に左右されている。言葉のために同じものが全く違ったふうに感じられることもあるくらいだ。

言葉はわたしたちの味覚をも支配している。小説家でコラムニストのブルボン小林氏はかつて次のようにエッセイに綴っている。


「子どものころ、気の抜けたコーラと言われて渡されたのが麦茶だったことがある。「うぇっ」と驚き、飲むのをやめてコップを眺めた(......)普段、麦茶を不味いと感じるわけではないのに、そのときだけ「うぇっ」と思ったのは事前にコーラという「言葉」を与えられていたからだ」(朝日新聞、2013年11月13日)

また、もらったオレンジジュースがなんだか不味いなと思いながら飲んでいたが、あるときパッケージをよくみたら、オレンジジュースではなくて「温州みかんジュース」だったと知って驚いたという。だが、その後さらに驚いたことには、「ずっと不味いと思って飲んでいたジュースが、今度は美味しかったのだ!」(同上)、と。

言語学者鈴木孝夫氏が「世界の断片を私たちがものとか性質として認識できるのは、ことばによってであり、ことばがなければ、犬も猫も区別できないはず」(『ことばと文化』岩波新書)と指摘するように、わたしたちは何を見るにもまず言葉の助けを必要とする。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

ネクスペリア中国部門「在庫十分」、親会社のウエハー

ワールド

トランプ氏、ナイジェリアでの軍事行動を警告 キリス

ワールド

シリア暫定大統領、ワシントンを訪問へ=米特使

ビジネス

伝統的に好調な11月入り、130社が決算発表へ=今
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:高市早苗研究
特集:高市早苗研究
2025年11月 4日/2025年11月11日号(10/28発売)

課題だらけの日本の政治・経済・外交を初の女性首相はこう変える

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    「日本のあの観光地」が世界2位...エクスペディア「今年注目の旅行先」、1位は米ビッグスカイ
  • 3
    9歳女児が行方不明...失踪直前、防犯カメラに映った「意外な姿」に大きな注目、なぜこんな格好を?
  • 4
    だまされやすい詐欺メールTOP3を専門家が解説
  • 5
    米沿岸に頻出する「海中UFO」──物理法則で説明がつか…
  • 6
    筋肉はなぜ「伸ばしながら鍛える」のか?...「関節ト…
  • 7
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」は…
  • 8
    虹に「極限まで近づく」とどう見える?...小型機パイ…
  • 9
    【ウクライナ】要衝ポクロウシクの攻防戦が最終局面…
  • 10
    【話題の写真】自宅の天井に突如現れた「奇妙な塊」…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    英国で「パブ離れ」が深刻化、閉店ペースが加速...苦肉の策は「日本では当たり前」の方式だった
  • 3
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読み方は?
  • 4
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」は…
  • 5
    【話題の写真】自宅の天井に突如現れた「奇妙な塊」…
  • 6
    【ウクライナ】要衝ポクロウシクの攻防戦が最終局面…
  • 7
    【クイズ】1位は「蚊」...世界で「2番目に」人間を殺…
  • 8
    女性の後を毎晩つけてくるストーカー...1週間後、雨…
  • 9
    9歳女児が行方不明...失踪直前、防犯カメラに映った…
  • 10
    庭掃除の直後の「信じられない光景」に、家主は大シ…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    英国で「パブ離れ」が深刻化、閉店ペースが加速...苦肉の策は「日本では当たり前」の方式だった
  • 3
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」はどこ?
  • 4
    かばんの中身を見れば一発でわかる!「認知症になり…
  • 5
    1000人以上の女性と関係...英アンドルー王子、「称号…
  • 6
    増加する「子どもを外注」する親たち...ネオ・ネグレ…
  • 7
    悲しみで8年間「羽をむしり続けた」オウム...新たな…
  • 8
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読…
  • 9
    【クイズ】日本でツキノワグマの出没件数が「最も多…
  • 10
    お腹の脂肪を減らす「8つのヒント」とは?...食事以…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中