コラム

ドキュメンタリー映画『教育と愛国』が記録した政治の露骨な教育介入

2022年05月25日(水)14時30分
『教育と愛国』

ILLUSTRATION BY NATSUCO MOON FOR NEWSWEEK JAPAN

<歴史の記述をきっかけに倒産に追い込まれた教科書出版社の元編集者や保守派に支持される教科書の執筆者へのインタビュー、加害の歴史を教える教師や研究する大学教授へのバッシング、無邪気にフェイクニュースを信じる政治家たち──映画のテイストはホラーでギャグ。だけど......>

2015年8月、安倍晋三首相(当時)は戦後70年談話を発表し、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子供たちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と述べた。

いつまで謝罪しなければならないのか。何度賠償を要求されるのか。おそらくこれは、保守的な思想を持つ多くの日本人の気持ちの代弁でもあるのだろう。でも韓国や中国などかつて日本から加害されたアジアの国の多くは、決して謝罪や賠償だけを求めているわけではない。

彼らの本意は謝ってほしい、ではなく、忘れないでほしい、なのだ。

しかし日本は忘れる。被害の記憶は語り継ぐが、加害の記憶は風化する。その意味で、長く論争の対象となってきた南京虐殺や従軍慰安婦問題はまだましだ。李氏朝鮮26代高宗の妃を殺害した閔妃暗殺事件、オーストラリア兵・オランダ兵捕虜を殺害したラハ飛行場虐殺事件、市民10万人が犠牲になったマニラ市街戦での住民虐殺、中国で3000人以上を人体実験で殺害した731部隊。ほかにも日本国や日本人が関わった虐殺は数多い。でも多くの人は知らない。忘れる以前にそもそもインプットされていない。

確かに失敗や挫折の記憶はつらい。できることなら忘れたい。なかったことにしたい。でもそれでは人は成長しない。個人史と同じだ。成功体験ばかりを記憶するならば、傲慢で鼻持ちならない人格になってしまう。同じ過ちを繰り返さないために記憶する。歴史を学ぶ意義はここにある。でも特に近年、こうした負の歴史を伝えることは自虐史観として、忌避される傾向がとても強くなっている。

06年、第1次安倍政権下で教育基本法にいわゆる「愛国心条項」が加えられた。その後も政治権力は教育に介入を続け、教科書は大きく変わり続けている。例えば道徳の教科書で、「パン屋」は「和菓子屋」に変えられた。理由はよく分からない。パンは西洋発祥だからなのだろうか。

このエピソードをオープニングに置いたドキュメンタリー映画『教育と愛国』は、急激に接近する教育と政治の関係を描く。とはいえ、決してお堅い社会派映画ではない。そのテイストはホラーでありギャグでもある。ところがテーマは深刻だ。

歴史の記述をきっかけに倒産に追い込まれた教科書出版社の元編集者や保守派に支持される教科書の執筆者へのインタビュー、慰安婦問題など加害の歴史を教える教師や研究する大学教授への一方的なバッシング。無邪気にネットのフェイクニュースを信じる政治家たち。

プロフィール

森達也

映画監督、作家。明治大学特任教授。主な作品にオウム真理教信者のドキュメンタリー映画『A』や『FAKE』『i−新聞記者ドキュメント−』がある。著書も『A3』『死刑』など多数。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

ハセット氏のFRB議長候補指名、トランプ氏周辺から

ビジネス

FRBミラン理事「物価は再び安定」、現行インフレは

ワールド

ゼレンスキー氏と米特使の会談、2日目終了 和平交渉

ビジネス

中国万科、償還延期拒否で18日に再び債権者会合 猶
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:教養としてのBL入門
特集:教養としてのBL入門
2025年12月23日号(12/16発売)

実写ドラマのヒットで高まるBL(ボーイズラブ)人気。長きにわたるその歴史と深い背景をひもとく

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    日本がゲームチェンジャーの高出力レーザー兵器を艦載、海上での実戦試験へ
  • 2
    香港大火災の本当の原因と、世界が目撃した「アジアの宝石」の終焉
  • 3
    【銘柄】資生堂が巨額赤字に転落...その要因と今後の展望。本当にトンネルは抜けたのか?
  • 4
    ミトコンドリア刷新で細胞が若返る可能性...老化関連…
  • 5
    「なぜ便器に?」62歳の女性が真夜中のトイレで見つ…
  • 6
    トランプが日中の「喧嘩」に口を挟まないもっともな…
  • 7
    極限の筋力をつくる2つの技術とは?...真の力は「前…
  • 8
    世界の武器ビジネスが過去最高に、日本は増・中国減─…
  • 9
    【衛星画像】南西諸島の日米新軍事拠点 中国の進出…
  • 10
    アダルトコンテンツ制作の疑い...英女性がインドネシ…
  • 1
    【衛星画像】南西諸島の日米新軍事拠点 中国の進出を睨み建設急ピッチ
  • 2
    デンマーク国防情報局、初めて米国を「安全保障上の脅威」と明記
  • 3
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だから日本では解決が遠い
  • 4
    【銘柄】資生堂が巨額赤字に転落...その要因と今後の…
  • 5
    【クイズ】「100名の最も偉大な英国人」に唯一選ばれ…
  • 6
    中国軍機の「レーダー照射」は敵対的と、元イタリア…
  • 7
    香港大火災の本当の原因と、世界が目撃した「アジア…
  • 8
    人手不足で広がり始めた、非正規から正規雇用へのキ…
  • 9
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」…
  • 10
    首や手足、胴を切断...ツタンカーメンのミイラ調査開…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸送機「C-130」謎の墜落を捉えた「衝撃映像」が拡散
  • 3
    日本人には「当たり前」? 外国人が富士山で目にした「信じられない」光景、海外で大きな話題に
  • 4
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 5
    【銘柄】オリエンタルランドが急落...日中対立が株価…
  • 6
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 7
    日本の「クマ問題」、ドイツの「問題クマ」比較...だ…
  • 8
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 9
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで…
  • 10
    ポルノ依存症になるメカニズムが判明! 絶対やって…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story