コラム

「顔パス社会」は来るか?

2018年05月18日(金)19時30分

そこで、日本で個人情報を収集する場合にはそうした人々の抵抗感に十分配慮し、集めた情報を限定された目的以外には決して利用しないことを確約しなければならない。だが、しばしばそうした配慮が行き過ぎていて、個人情報をいくら提供してもさっぱり便利にならないということが起きる。

その典型例がマイナンバー制度だ。2016年にマイナンバーが始まって以来、私は膨大な量の個人情報を様々な企業や機関に提供してきた。私に対して近年原稿料や講演料などを支払ったことのある機関や企業が私のマイナンバーを求めてきたのである。いずれも、指定の台紙にマイナンバー通知カードと写真付き身分証明書のコピーを糊で貼って送るよう指示してきた。

一件あたり5分ぐらいで終わる簡単な作業だとはいえ、それが50件にもなるとさすがにうんざりしてくる。困ったことに各社がそれぞれマイナンバー収集作業に「創意工夫」をこらしているらしく、普通郵便で送るか簡易書留にするかなど、細かい差異があるので、いちいち説明文を読まねばならない。マイナンバーを収集している方々には大いに同情するのだが、他社のフォームを流用すればお互いに手間が軽減できるのになぜ独自のフォームに固執するのか理解できない。

さて、マイナンバーはどんな役に立っているのだろうか。総務省の説明では「行政を効率化し、国民の利便性を高め、公平公正な社会を実現するため」であるそうだ。たしかに同姓同名の人もいるなかで、個人を番号によって識別することで、各人がいろいろなところから得る所得の情報を効率的に集め、所得税などを確実に徴税するのに役立つだろう。マイナンバーの導入によって国税庁の職員の残業がなくなり、有給休暇をちゃんと取得できるようになったのであれば、それは素晴らしい。

日本では望み薄か

ただ、マイナンバーを提供する国民の側は目下のところ単に手間が増えただけで、何の利便性も享受していない。どうせマイナンバーを導入するのであれば、デンマークのように、税務署の方で各人の所得や年金や寄付などのデータを集めて確定申告書類を作成し、本人はそれを確認するだけでいい、という風にしてほしいところである。ところが、日本では確定申告は相変わらず納税者自身がむかしながらの方法で行わなくてはならない。春先に方々から送られてくる源泉徴収票や寄付金などの証明書を申告書の裏に糊でペタペタ貼るローテクなやり方で確定申告書を作成することを求められている。マイナンバー制度によって国民と企業は単にマイナンバー情報を提供する負担が増えただけで何も便利になっていない。こうして国民から奪った時間を上回るだけ政府職員の残業が減り、政府の支出も節約できた、というのでなければ、この制度は単に無駄な労務を増やしただけということになる。

なぜデンマークのようにマイナンバーを利用することで国民の確定申告書作成の手間を省く、ということが日本ではできないのだろう。それは政府が勝手に国民の所得情報を集計することに対して国民には抵抗感があるはずだ、と政府が考えているからに違いない。

実際、日本にはそういうことを拒否する人が多いのかもしれない。

そんなわけで、日本では「顔パス社会」の実現は望み薄だと思わざるを得ないのである。

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プロフィール

丸川知雄

1964年生まれ。1987年東京大学経済学部経済学科卒業。2001年までアジア経済研究所で研究員。この間、1991~93年には中国社会学院工業経済研究所客員研究員として中国に駐在。2001年東京大学社会科学研究所助教授、2007年から教授。『現代中国経済』『チャイニーズ・ドリーム: 大衆資本主義が世界を変える』『現代中国の産業』など著書多数

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