盲信しないで疑ってみる...「我思う、ゆえに我あり」のデカルトは、疑いまくって後の科学を発展させた【3分だけ哲学】
「心」と「体」は別のもので、世界は「心」と「物質」に分けて考える
考える私(精神)と肉体(物体)はまったく異なった性質をもっています(心身二元論)。ここから、デカルトは精神と物体は異なる実体であると結論しました(物心二元論)。精神も物体もともに実体ですが、精神の属性(本質)は思惟することであり、物体の属性(本質)は延長すること(空間を占めること)ですから、これらはまったく次元の違う存在だと考えられるのです(けれども、「心身問題」も生じましたので、デカルトもここには苦労したようです)。
ここで、外部にある物体を主観はいかにして正しく捉えることができるのか(主観と客観はいかにして一致するのか)という難しい問題が生じます。精神と物体の二元論(2つがそれぞれ独立した実体)ですから、これら両者をつなぐ土台が必要です。
神の存在証明:神の存在を論理的に証明しようという試み
そこでデカルトは、論理的に神の存在証明を行います。この神の存在によって主観と客観は一致することになります。この神は、宇宙の原理としての神です。神の観念には「誠実」が含まれています。「誠実」ではない神は矛盾です。これによって、人間の理性は確実であることが保証され、人間はありのままの世界をありのままに認識できる。だから科学的判断は正しいとなります。
疑いをすすめると、どうしても目の前のペットボトルは幻覚ではないか、仮想現実ではないかという話になりますが、デカルトは、神の存在証明によって主観が客観に的中するという保証を得たのでした。
物事を客観的に捉えようとする態度で科学が発展!
さてデカルトは、精神の属性は思惟ですから、そこに自発性と自由を認めます。しかし、物体の動きについては徹底した機械論と決定論で説明しました。
これ以前は、アリストテレス・キリスト教哲学の影響で、物体と精神の境界線が曖昧でした。しかし、デカルトはこの2つをバッサリと仕切ったのです。