コラム

『オッペンハイマー』日本配給を見送った老舗大手の問題

2024年03月13日(水)14時30分

アカデミー賞作品賞を受賞した『オッペンハイマー』のノーラン監督(前列右) Jack Bruber/USA TODAY NETWORK/REUTERS

<芸術作品に賛否両輪はつきもので、いちいち「炎上」を気にしていたら芸術活動には参加できない>

今年のアカデミー賞授賞式が終わりました。日本や東アジアでは、主演女優賞を受賞したエマ・ストーンと、助演男優賞を受賞したロバート・ダウニー・ジュニアが、アジア系俳優を「無視」したように見えることから、ハリウッドやアメリカ社会に「アジア系差別がある」という取り上げ方がされています。

この問題に関しては、偶発的な行き違いであったように見えるストーンはともかく、ダウニー・ジュニアの場合は確かにお行儀が良いとは言えず、批判は免れないと思います。ですが、こうした事件を取り上げて、ハリウッドやアメリカで社会的なアジア系差別があるとか、自分も被害者だとして憤ったり、アメリカへの不快感、距離感を表明したりするのは、やや過剰な反応と思います。この点に関しては少し落ち着いたほうが良いのではないかと思います。

今回のオスカーで、問題なのはやはり作品賞です。

クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』が受賞したわけですが、この映画の評価が固まっていくプロセスで、被爆国である日本の映画ファンの広範な意見は結局のところ反映しませんでした。これは問題だと思います

日本の洋画市場は、縮小したとはいえ無視できない規模です。そこで80年代以降は、多くの場合、ハリウッドの大作映画は日本でほぼ同時公開されていました。クリストファー・ノーラン監督は日本でも人気がありますから、過去の作品の多くは北米での公開からそれほど遅れずに公開されていたのです。

「バーベンハイマー」の炎上

ところが、この『オッペンハイマー』については、原爆開発の物語であることから、日本では賛否両論が予想されていました。また、女性の権利をコメディ仕立てで訴えた『バービー』と公開時期が重なったことから、コロナ禍で沈滞した劇場公開を盛り上げようと「バーベンハイマー」なる合成語が作られて、SNSで盛り上がったことが、日本では炎上してしまいました。

つまり悲惨な原爆の話と、ピンク色をテーマカラーにした派手なコメディを同列に扱うのは不謹慎だという論理です。そうした中で、通常はこのノーラン監督の契約しているハリウッドの大手スタジオの作品を日本で公開していた老舗の配給会社は、公開を見送ってしまいました。

その上で、かなり後になって文芸映画の自主制作と、海外作品の配給を手掛ける中堅の会社が配給に手を上げて公開の準備に入りました。公開にあたっては、広島、長崎で試写会を行い、その際に公開討論を行うなど、極めて良心的な姿勢が見られます。こうした方法に対しては敬意を表したいと思います。

ですが、順序としては、日本の広範な観客による評価が、アカデミー賞の投票に影響を与えるということにはなりませんでした。そして、ハリウッドとしては、既に興行収入を確保し、その上にオスカー作品賞の栄誉にも輝くこの作品の評価を変えることはないでしょう。

公開がもっと早期に実現していたら、日本での評価がもっとハリウッドに伝わったと考えると、やはり残念な思いがします。これを機会に、今後のことを考えて、何が問題だったのかを整理しておくことにします。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

為替に関する既存のコミットメントを再確認=G20で

ビジネス

米国株式市場=上昇、大型ハイテク株に買い戻し 利下

ワールド

米大統領とヨルダン国王が電話会談、ガザ停戦と人質解

ワールド

ウクライナ軍、ロシア占領下クリミアの航空基地にミサ
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:トランプ暗殺未遂
特集:トランプ暗殺未遂
2024年7月30日号(7/23発売)

前アメリカ大統領をかすめた銃弾が11月の大統領選挙と次の世界秩序に与えた衝撃

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「習慣化の鬼」の朝日新聞記者が独学を続けられる理由【勉強法】
  • 2
    BTS・BLACKPINK不在でK-POPは冬の時代へ? アルバム販売が失速、株価半落の大手事務所も
  • 3
    【夏休み】お金を使わないのに、時間をつぶせる! 子どもの楽しい遊びアイデア5選
  • 4
    キャサリン妃の「目が泳ぐ」...ジル・バイデン大統領…
  • 5
    地球上の点で発生したCO2が、束になり成長して気象に…
  • 6
    トランプ再選で円高は進むか?
  • 7
    カマラ・ハリスがトランプにとって手ごわい敵である5…
  • 8
    もろ直撃...巨大クジラがボートに激突し、転覆させる…
  • 9
    日本人は「アップデート」されたのか?...ジョージア…
  • 10
    「轟く爆音」と立ち上る黒煙...ロシア大規模製油所に…
  • 1
    正式指名されたトランプでも...カメラが捉えた妻メラニアにキス「避けられる」瞬間 直前には手を取り合う姿も
  • 2
    すぐ消えると思ってた...「遊び」で子供にタトゥーを入れてしまった母親の後悔 「息子は毎晩お風呂で...」
  • 3
    月に置き去りにされた数千匹の最強生物「クマムシ」、今も生きている可能性
  • 4
    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…
  • 5
    【夏休み】お金を使わないのに、時間をつぶせる! 子…
  • 6
    「習慣化の鬼」の朝日新聞記者が独学を続けられる理…
  • 7
    ブータン国王一家のモンゴル休暇が「私服姿で珍しい…
  • 8
    「失った戦車は3000台超」ロシアの戦車枯渇、旧ソ連…
  • 9
    「宇宙で最もひどい場所」はここ
  • 10
    ウクライナ南部ヘルソン、「ロシア軍陣地」を襲った…
  • 1
    中国を捨てる富裕層が世界一で過去最多、3位はインド、意外な2位は?
  • 2
    ウクライナ南部ヘルソン、「ロシア軍陣地」を襲った猛烈な「森林火災」の炎...逃げ惑う兵士たちの映像
  • 3
    ウクライナ水上ドローン、ロシア国内の「黒海艦隊」基地に突撃...猛烈な「迎撃」受ける緊迫「海戦」映像
  • 4
    ブータン国王一家のモンゴル休暇が「私服姿で珍しい…
  • 5
    正式指名されたトランプでも...カメラが捉えた妻メラ…
  • 6
    韓国が「佐渡の金山」の世界遺産登録に騒がない訳
  • 7
    すぐ消えると思ってた...「遊び」で子供にタトゥーを…
  • 8
    月に置き去りにされた数千匹の最強生物「クマムシ」…
  • 9
    メーガン妃が「王妃」として描かれる...波紋を呼ぶ「…
  • 10
    「どちらが王妃?」...カミラ王妃の妹が「そっくり過…
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story