コラム

アメリカの保守派はどうして「オバマの医療保険改革」に反対するのか?

2013年10月10日(木)14時22分

 それにしても、誰でも病気にかかるのは怖いはずです。カゼならともかく、重い病気になればどうしても医者にかからないわけには行きません。その場合の費用を考えると「医療保険はいらない」という発想は考えられないはずです。「無保険」の場合、例えば突然に重病だということが判明し、高額な手術をしなくては助からない場合は、生命に関わることにもなります。

 多くの先進国が「国民皆保険制度」を設けているのはこのためであり、先進国あるいは成熟国の場合は常識であると言えます。ですが、この「常識」をアメリカへ適用しようとしたオバマの「医療保険改革」に対して、今でも議会の下院共和党は「延期か廃止」を求めて一種の「ストライキ戦術」に出ているのです。要するに大統領と上院に対して「予算案」を人質に取って抵抗しているわけです。先週から続いている「政府閉鎖」が発生したのはこのためです。

 下院共和党の背後にはいわゆる保守票があります。特に2010年の中間選挙以来、オバマへの批判を続けて影響力を持っている「ティーパーティー」系の人々は、今でもオバマの医療保険について「オバマケア」という通称をつけて毛嫌いしています。ちなみに、「オバマケア」という言葉を大々的に使ったのは、前回の大統領選の予備選段階でのロムニー候補でした。

 その「オバマケア」の語源ですが、まず1960年代のジョンソン政権の時代に「メディケア」という高齢者向けの医療保険と、「メディケイド」という貧困層向けの医療保険が創設されたのですが、保守派としては今でもこの制度ができたことを「恨んでいる」のです。そこで「悪しきメディケア」と同じ「オバマケア」には反対だというスローガンにすると、反対を唱える際に言いやすいというわけです。

 実はジョンソン政権の時代に民主党は「国民皆保険」を提案していたのですが、これに対して共和党は「医療保険の社会主義化に反対」という言い方で反対してきました。これに対して民主党は、1993年には当時ファーストレディーだったヒラリー・クリントンが責任者になって「国民皆保険」を模索したのですが、共和党の激しい反対により断念しています。つまり、この医療保険の問題は半世紀以上も民主党と共和党の「対立点」になって来ているのです。

 それにしても、国民皆保険が「ない」社会というのはどう考えても不安なはずですが、どうしてアメリカの保守派は「平気で反対」するのでしょうか?

 その前提には、多くのアメリカ人は現在でも保険に入っており、自分たちは医療費の心配は余りしなくていいという状況があります。つまり基本的にフルタイムの雇用があって職場の保険に加入している人、自営業で高額の自己負担保険を買って入っている人、つまり既存の「民間の医療保険に加入している人」というのは、基本的には「オバマケア」がなくてもいいのです。

 これに加えて、今回の「オバマケア」が導入される中で、民間の医療保険に関しては微妙に「不利益変更」が出ています。例えば、新しい法律では「民間の保険でも加入前の健康状態で契約を拒否してはならない」という制度が動き出しているのですが、民間の保険の場合はその分だけ保険料がアップという現象も起きています。また、「オバマケア」全体の制度改訂の中には「医療費抑制策」も入っていて、そこに引っかかると「過去に受けられていた治療が受けられない」というケースもあるのです。

 つまり、元々民間の保険に入っていた人間は、新しい制度になることで「仮に失業しても政府の主管する安い保険に入れる」とか、成人した子供がフルタイム雇用に就く前の期間に入る保険ができたという「万が一の保障」が加わっただけで、基本的には余りメリットはない、事実関係として見ればそういうことになります。

 ちなみに、この新しい「皆保険制度」ですが、必ずしもそれまで「無保険」の人だけでなく、高額な民間の保険に「雇用主との折半ではなく、全額自腹で」入っていた人など、誰でも入れるわけです。ですが、今回の新しい保険は「安かろう、悪かろう」という面は否めず、高額な民間の保険では可能であった治療が対象外であるとか、馴染みの医者はダメで遠くの総合病院に行かなくては使えないということになるわけで、家族持ちの人にはそのような「グレードダウン」は難しいわけです。

 そうした中で、保守派の人々の中には「自分たちには何のメリットもなく、むしろ負担増ばかり」という不満が募っています。そこで出てくるのが開拓時代から脈々と流れるカウボーイ精神と言いますか、「自分と家族の健康を守るのは個人の責任」だとして「その責任を果たせない都会の貧困層の医療費コストをどうして自分たちが払わなくてはならないのか?」という発想です。

 正に、小さな政府と自己責任論です。但し、アメリカの保守思想というのは、弱者を切り捨てる冷酷なものかというと、必ずしもそうではありません。福祉や相互扶助を「個人の善意」や「教会などのコミュニティの自発的活動」で達成していこうという姿勢は、民主党支持者よりも強いのです。ですから、小さな政府論と言っても、無政府主義とか破壊一辺倒ではなく、受け皿として「非政府活動」を考えているのだということは指摘しておいても良いと思います。

 そうは言っても、若くて健康な人も含めて医療保険というのは「例外的な負担は個人ではなく、全体で支える」というのが根本思想であり、数学的な真理であるわけです。ですから、アメリカ以外の先進国ではどこも「生存権の具体化」としての「皆保険制度」が運用されているわけです。そうした「人類の常識」が通用しないのがアメリカの保守派であると言えます。

 この「オバマケア」ですが、2010年3月に成立後、2012年6月には最高裁で違憲審査が行われて「合憲という審判」が下っています。ですが、主要な部分がこの2013年10月に施行されるのと同時に、保守派は「最後の抵抗」をしているわけで、それが今回の「政府閉鎖」の主要な原因となっているのです。

 この「予算バトル」ですが、ようやく最終段階というムードが出てきました。2008年の大統領選で共和党を代表したマケイン上院議員(その時の大統領候補)や、ライアン下院議員(12年大統領選の副大統領候補)が揃って「オバマケア廃止は非現実的」という声明を出し、政争の出口を模索し始めています。オバマ大統領は、予算と同時に大きな「人質」になっている「債務上限問題」に関して「短期的な解決策に応じる」という妥協の姿勢を打ち出しました。

 勿論、共和党もここでズルズル引き下がるわけではなく、オバマケア廃止という「今となっては非現実的」なスローガンの代わりに「歳出カットと財政規律確保」のための条件闘争にスイッチするようです。いずれにしても、政治的なヤマ場が近づいてきています。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ビジネス

再送米GDP、第1四半期+1.6%に鈍化 2年ぶり

ビジネス

ロイターネクスト:為替介入はまれな状況でのみ容認=

ビジネス

ECB、適時かつ小幅な利下げ必要=イタリア中銀総裁

ビジネス

トヨタ、米インディアナ工場に14億ドル投資 EV生
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:世界が愛した日本アニメ30
特集:世界が愛した日本アニメ30
2024年4月30日/2024年5月 7日号(4/23発売)

『AKIRA』からジブリ、『鬼滅の刃』まで、日本アニメは今や世界でより消費されている

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 2

    中国の最新鋭ステルス爆撃機H20は「恐れるに足らず」──米国防総省

  • 3

    今だからこそ観るべき? インバウンドで増えるK-POP非アイドル系の来日公演

  • 4

    「すごい胸でごめんなさい」容姿と演技を酷評された…

  • 5

    未婚中高年男性の死亡率は、既婚男性の2.8倍も高い

  • 6

    「誹謗中傷のビジネス化」に歯止めをかけた、北村紗…

  • 7

    心を穏やかに保つ禅の教え 「世界が尊敬する日本人100…

  • 8

    「たった1日で1年分」の異常豪雨...「砂漠の地」ドバ…

  • 9

    やっと本気を出した米英から追加支援でウクライナに…

  • 10

    「鳥山明ワールド」は永遠に...世界を魅了した漫画家…

  • 1

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 2

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価」されていると言える理由

  • 3

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた「身体改造」の実態...出土した「遺骨」で初の発見

  • 4

    「世界中の全機が要注意」...ボーイング内部告発者の…

  • 5

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 6

    医学博士で管理栄養士『100年栄養』の著者が警鐘を鳴…

  • 7

    ハーバード大学で150年以上教えられる作文術「オレオ…

  • 8

    「たった1日で1年分」の異常豪雨...「砂漠の地」ドバ…

  • 9

    NewJeans日本デビュー目前に赤信号 所属事務所に親…

  • 10

    「誹謗中傷のビジネス化」に歯止めをかけた、北村紗…

  • 1

    人から褒められた時、どう返事してますか? ブッダが説いた「どんどん伸びる人の返し文句」

  • 2

    韓国で「イエス・ジャパン」ブームが起きている

  • 3

    ロシアの迫撃砲RBU6000「スメルチ2」、爆発・炎上の瞬間映像をウクライナ軍が公開...ドネツク州で激戦続く

  • 4

    バルチック艦隊、自国の船をミサイル「誤爆」で撃沈…

  • 5

    最強生物クマムシが、大量の放射線を浴びても死なな…

  • 6

    88歳の現役医師が健康のために「絶対にしない3つのこ…

  • 7

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士…

  • 8

    ロシアが前線に投入した地上戦闘ロボットをウクライ…

  • 9

    「燃料気化爆弾」搭載ドローンがロシア軍拠点に突入…

  • 10

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story