コラム

首相公邸の「幽霊話」、奇々怪々というより支離滅裂

2013年05月28日(火)13時02分

 安倍首相は首相官邸の隣にある公邸への引越しを準備中のはずですが、最近になってその公邸に幽霊が出るという話がまことしやかに話題になっています。菅義偉官房長官が噂を否定しなかったり、国会質疑の際に話題に上ったり、何ともバカバカしい限りですが、そもそもこの「公邸」の歴史を振り返ってみれば、奇怪というより支離滅裂な話としか言いようがありません。

 まず、首相公邸が「二・二六事件の舞台」となったというのですが、現在の公邸というのは、小泉内閣までの長い間政治の表舞台となった「旧首相官邸」を移築して、内装を変更したものです。ですから、二・二六事件の舞台となった「旧公邸」とは全く別の建物であり、「二・二六事件の現場だから怖い」というのは不自然です。

 仮にその「旧公邸の場所が怖い」ということであれば、その場所には現在はモダンなデザインの新「官邸」が建っているわけですから、幽霊が出るのであれば、それこそ首相の「執務室」なり「閣議室」に出てもおかしくないわけです。

 百歩譲って、いずれにしても「公邸には幽霊が出る」としても、話としてはスッキリしません。確かに二・二六事件の際には、旧公邸では5名の犠牲者が出ています。栗原中尉以下の青年将校が、機関銃小隊などという物騒な部隊を引き連れて、この場所を狙ったのは他でもない当時の現職首相の岡田啓介を暗殺するためでした。

 ですが、岡田首相は間一髪遭難を免れています。というのは、首相の義弟であり、また同時に秘書官であった松尾傳藏(まつお・でんぞう)という元陸軍軍人が、岡田首相の身代わりになって犠牲になっているからです。また、首相官邸の護衛にあたっていた警視庁の村上巡査部長以下の警官4名も犠牲になっています。

 その松尾傳藏秘書官ですが、関係者から直接聞いた話では、容姿が岡田首相に似ていたために「イザという時は身代わりになって首相を守る」という覚悟を固めていたそうです。また、青年将校に射殺された後の公邸内では、松尾秘書官の家族は身内を殺されたにも関わらず、その感情を深く伏せて「首相が殺された」という偽装を貫いたために、青年将校たちは「自分たちは目的を遂げた」と思い込んで引き上げたのだそうです。

 結果的に岡田首相本人は、別室に潜んでいて間一髪、別の秘書官である迫水久常が救出して助かったのです。岡田啓介という人は、この事件の責任を負って内閣総辞職しますが、その後には第二次大戦の最終局面において、迫水久常と組んで終戦工作の要の役割をすることになります。その際には、同じように二・二六事で負傷しつつ生還した鈴木貫太郎が首相をやり、鈴木=岡田のコンビで難しい内外の調整を行ったのです。

 仮に二・二六で岡田啓介が死んでいたら、日本はもっと深刻な破滅に至っていたかもしれません。いずれにしても、岡田啓介、鈴木貫太郎、迫水久常という昭和史の中で日本を「全的な破滅」から救い出した人々、少なくとも戦後日本の「国のかたち」が存在していることに関係のある人々は、岡田の身代わりになった松尾傳藏秘書官には、深い哀悼と感謝を念じ続けたことは間違いないと思います。また、同時に犠牲になった警官たちにも、当時の日本は国家としてその名誉を顕彰しているのは間違いありません。

 そんなわけで、首相公邸が惨劇の現場になったからといって、そこに幽霊が出るというのはどうにも不自然な感じがするのです。凄惨な事件の結果として5名が亡くなった場所だというのは、大変に重い事実ですが、犠牲者に対して周囲も、そして日本という国家も礼は尽くしているからです。

 ところで、この「公邸の幽霊話」ですが、当時の公邸を防衛していた側の犠牲者ではなく、「軍服を着た集団の幽霊」だという話もあるようです。報道によれば、ここ20年の中で、公邸に起居した首相経験者の家族が「軍服を着た幽霊を見た」とか、「深夜に廊下から軍靴の響きがした」という発言をしているという話もあります。そうなると、この幽霊というのは、二・二六事件の青年将校たちの方になります。

 これもおかしな話です。青年将校たちは事件後に拘束されて、軍事法廷で死刑の判決を受けた後に渋谷の現在は渋谷税務署のある辺りで銃殺されています。幽霊が出るとしたら、そっちの方であって、首相公邸に出るというのもおかしな話です。

 ですが、仮に「青年将校の幽霊が首相公邸に出る」のだとしたら、そうした話を面白おかしく語る中に、「青年将校が岡田首相を殺せなかったという怨念」に共感するとか、そこまで行かなくても「純粋な青年将校たちが結果的に銃殺刑になった無念」に漠然とシンパシーを感じるというような感覚があるのではないでしょうか?

 仮にそうであるならば、現在の日本の平和国家という「国のかたち」から発想するならば、やはり支離滅裂であると思います。何よりも、その日に公邸で凶弾に倒れた5名の犠牲に対して不謹慎です。

 ちなみに、この二・二六事件についてですが、統制派が官僚的な軍国主義で、皇道派が狂信的な国家社会主義だったというような単純なものではないと私は考えています。いずれ、専門の歴史家の方にも教えを請うて理解を深めたいと思っているのですが、当時の陸軍の上層部においては「皇道派=対英米協調、対ソ強硬、対中宥和」、「統制派=対ソ戦回避、南進、対中強硬」という深刻な、そして一筋縄ではいかない路線対立があり、いわゆる青年将校たちは、その対立の本質を知らぬまま「陸軍の内部抗争のコマ」として利用されたのではという感触を持っています。

 いずれにしても、幽霊がどうのこうのというのは時間のムダでもありますし、いい加減にしてもらいたいと思います。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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