コラム

日本の雇用の敵は「経済合理性」ではなく「封建主義」ではないのか?

2012年04月04日(水)10時59分

 日本の公務員組合は、既得権を守られた集団ということで批判の対象になることが多くなりました。一方で、多くの民間企業にも組合はありますが、業績が不振だとか、国際競争に負けたという経営側の説明に対して戦うことはまずないわけで、こちらの方も存在意義が問われても仕方がないのかもしれません。

 また、現在のように消費者に全能の立場が与えられている社会では、交通機関などがストライキを行うことは社会的支持を得るのは難しいとも言えます。国家公務員へのスト権付与が検討されているのも、世論を恐れて行使できないだろうという計算を含めた動きとも言えます。

 こうした雰囲気を受けて、労働者の権利というのは幻想だという理解が広がっています。例えば若者が良く「ブラック企業」という言い方をしますが、具体的には労働基準法の違反が行われている場合が多いのだと思います。

 ですが、労働基準監督署が摘発したり、被害者が訴訟して勝ったり、あるいは組合が立ち上がったりして是正がされることは「ないだろう」という理解がそこには伴っています。「ブラック」に入ってしまって健康を害しては損だから、できるだけ避けようという自衛を講ずるしかない、この「ブラック」という言い方、そしてほとんどが匿名で行われるコソコソした「悪い噂」にはそうした諦めを伴っているように見えます。

 こうした風潮は、何も若者が脆弱化したとか騙されやすくなった、あるいは法律や社会制度への知識が欠けているから起きているのではないようです。長引く不況と、負け続ける国際競争の中で、人件費はコストであり、コストが過大になれば地方自治体も民間企業も破綻して、結局は雇用が失われるわけであり、どこにも打ち出の小槌はないのだという諦めにも似た理解がそこにはあるようです。

 例えば、労働者を保護しようという趣旨で法律を「いじって」も、例えば契約社員を5年経ったら正社員にせよという法律は結局は「契約社員は満5年の直前でクビ」という運用を増加させるだけと予想されるわけです。このように、言葉だけは立派でも現場を知らない人間が設計した制度では、労働者の利益には全くならないわけです。こうした表面的な法改正も、閉塞感を増すだけの結果に終わっています。

 では、結局はこの世は弱肉共食であり、運が悪く立ち回りの下手な労働者は過労死に追い込まれても仕方がないのでしょうか? 結果的に戦後日本の輸出立国とか「総中流」というのは、一時的に成功したバブルのようなものであって、競争力が失われ人口減のジェットコースターが内需を引き連れて谷底へ向かう中では、結局は女工哀史的なものが再発する形で貧富の格差が広まるのはどうしようもないのでしょうか?

 2つの問題提起をしたいと思います。

 1つ目は、アメリカやヨーロッパでは、国内向けの定形仕事で食べてゆく仕組みが守られているという事実です。まず大原則として「高待遇の仕事は実力主義であり一切保護されない」一方で「定型業務は9時5時仕事で家庭生活と両立。身分も組合に守られている」というバランスがあります。更に言えば、定形仕事であっても運輸業など「人の命を預かる仕事」には「ちゃんと生活できる給料を払わないと安全は確保できない」という一種の常識も残っています。

 勿論、公務員にしても民間にしても、定形仕事の身分が保証されているというのはコスト高になります。アメリカの場合ですと、自動車産業の組合員などは余りにも高コストだということで、会社の再編と共に既得権も取り上げられることになりました。地方の財政破綻のために、公務員や教員に対するレイオフは今でも続いています。全体に欧米でも労働者の権利は徐々に削られる方向にあるのは事実です。

 ですが、物事の順序として「高給の管理職はいつでもクビになる可能性があるが、非管理職の組合員は身分を保護されている」あるいは「成果主義の管理職は早朝出勤も海外出張もするが、定形仕事の非管理職は家庭との両立が可能」というバランスはまだ残っているのです。日本の場合は、これがまだ逆転しており、高給の終身雇用契約者の身分は保護され、定型業務の方は権利も保護もドンドン切り崩されているというアンバランスがあるわけです。

 もう1つは、政治にとって雇用確保ということが最重要課題だという認識です。雇用というのは、その国の、あるいはその地方自治体にとって最優先事項であるわけで、例えばアメリカの場合ですと、失業率が悪ければ大統領でも再選されない、つまりクビになるわけです。各州の知事にしても、市町村長にしても雇用は最優先課題で、80年代から90年代などは各州の知事が日本にこぞって出張して熱心に企業の誘致をしていたものです。

 ですが、日本の場合は雇用統計の上がり下がりが重要な政治課題になることは、比較的少ないように思われます。その背景には、現時点で安定的な雇用を確保している人の多くは終身雇用契約であり、多少の情勢変化でその地位が脅かされることはない、つまり「明日は我が身」という当事者意識がないということがあると考えられます。こうした終身雇用契約を得ている人に加えて、年金受給世代を足すと、「失業率は他人ごと」だという巨大な人口があるわけで、結果的に雇用統計が政治家の成果判定などで重視されない、どうもそう考えるしかないようです。

 そんなわけで、日本は発展途上国のように「今日より明日は良くなる」ということもなければ、先進国の「管理職はクビになるが、非管理職は比較的安定」というバランス感覚もないし、雇用統計によって厳しく政治家の評価がされることもないわけです。

 労働の現場に能力主義を持ち込むなど、経済合理性を導入することを「悪」だという批判があります。ですが、雇用の問題に関して言えば、日本で現在進んでいることは「経済合理性の導入」というよりも「封建主義的な不公正の拡大」に近い、そう考えるべきだと思うのです。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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