コラム

スティーブ・ジョブズの軌跡とは何だったのか?

2011年09月02日(金)11時23分

 スティーブ・ジョブズがアップルのCEOを辞任したニュースは、世界的に多くの反響を呼びました。闘病が発表されてから7年、いつか「この日」が来ることを多くのアップルのユーザーは恐れてきました。ですが、当初多くの人が考えたよりもずっと穏やかな形で、従って、ジョブズの軌跡はしっかりと最後に輝く形で「この日」を迎えることができたように思います。

 ジョブズの軌跡とは何だったのでしょうか? 眩しいほどの光を放ちながら、それを立体的に彩る陰翳と流れの中に明らかに刻まれた濃淡を思えば、それだけで同時代を駆け抜けた人間の中で、突出した存在でした。では、具体的には何だったのでしょうか?

 有名な2005年のスタンフォード大学でのスピーチや、毎回の新製品発表のプレゼンなどのコミュニケーションの素晴らしさを挙げる人も多いでしょう。何よりも、創業者の一人であるにも関わらず、一度はアップル社から追放されながらも、ユニックス系のOS技術を引っさげて経営陣に返り咲く中で、同社をITのトップ企業に導いたドラマチックな人生が強い印象を残すということもあるでしょう。

 ですが、ジョブズの軌跡を一言で言うならば、20世紀までの人類が積み重ねてきた文化と21世紀のデジタル文化の「架け橋」をしっかりとかけたということです。

 スタンフォードでのスピーチで言っていた有名なエピソードに、ジョブズが大学中退後にその大学で聴講を続けていた際に、授業でカリグラフィ(スタイルの確立したペン習字、あるいはローマ字のハンドレタリング)を熱心に学んだという話があります。自分の将来設計を見失い、ある種の自分探しをしていた時期に、一見すると全くムダな「カリグラフィ」に凝ったことが、やがてパーソナルコンピュータ「マッキントッシュ」における、フォントへのこだわりになっていったというのです。

 ジョブズは、「僕が大学を中退していなかったら、現在のあらゆるパソコンには豊かなフォントの機能は装備されていなかっただろう」と胸を張っています。人生における回り道が意味を持ってくるということ、狂ったような情熱で何かを吸収することの大切さを示す話ですが、それ以前の話として、コンピュータ技術の生かし方に関する大事なエピソードだと思うのです。

 80年代のパソコン揺籃期には、本当にドット数の少ない、それこそ8*8といったようなものが文字表示の出発点になっていました。ですが、そこに滑らかで美的なフォントを使いたい、しかもデザインやレイアウトに合うようにフォントも変化をつけたい、更にはコンピュータ専用の美しいフォントが欲しいといったニーズがあることをジョブズが見抜き、そのことに徹底したこだわりを持っていたというのは偶然だけではないと思います。それは紛れも無いジョブズの才能を示すものでした。

 文字というものが、コンピュータによって電子記号となり、極端に抽象化されていって構わないという考え方ではなく、コンピュータの性能向上が、20世紀以前から綿々と人類が引き継いできた活字やハンドライティングにおける「美学」や「読みやすさ」というものに貢献すべきだというのは、保守性でも何でもないのです。

 それは文字というのものが、人間と情報のインターフェースの道具であり、デザインや読みやすさという付加価値を含めて機能していることを見ぬいた上で、それに対してデジタル技術によって圧倒的な利便性を与える、そのことの意味と有効性を認識していたということです。

 その一方で、人間とコンピュータのインターフェースにおいて、文字では直感的に遅れそうな部分には画面上では「アイコン」という処理を行い、そのアイコンを操作するデバイスとしてマウスを実用化したのでした。マウスにしても、アイコンにしても基本的なコンセプトはダグラス・エンゲルバートなど60年代の先進的な発明家のアイディアですが、ジョブズが「マッキントッシュ」で取り上げることで現在のような普及を遂げたのは間違いないと思います。

 勿論、マウスの実用化だけでもITに対する物凄い貢献であるわけですが、アイコンがあって初めてマウスが生きるのであり、またアイコンの操作でインターフェースが簡略化されることで、キーボードはマシンへの命令ツールであることから解放され、人間の培ってきたテキストという文化の産物を「創造する」ツールに特化していったわけです。そのテキスト創造という人間的な作業を、豊かな表現力をもったフォントが支えていたというわけです。

 マッキントッシュの、そして後年の小文字の「i」を冠した様々な製品が持っている、美しさと使いやすさというのも、それ以前に彼が手がけたソフトが目指していたものも、全てがそうでした。アップル製品は、ブランドイメージが確立しているために「コモディティ化」とは無縁だとか、マーケティングのお手本だとよく言われますが、それはあくまで結果であり、そのレベルでは真似をしようとしても、不可能だと思います。

 ユーザーが道具としてのコンピュータ、電子機器に何を求めているかを本質的な部分で見抜き続けたジョブズの軌跡は、人類の文明にとって眩しく、そして重要でした。もしかしたら、ジョブズは、20世紀と21世紀という異なる世界に架け橋をかけた、あるいは連続性を確保した存在なのかもしれません。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

ドイツ銀、28年にROE13%超目標 中期経営計画

ビジネス

米建設支出、8月は前月比0.2%増 7月から予想外

ビジネス

カナダCPI、10月は前年比+2.2%に鈍化 ガソ

ワールド

EU、ウクライナ支援で3案提示 欧州委員長「組み合
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:世界も「老害」戦争
特集:世界も「老害」戦争
2025年11月25日号(11/18発売)

アメリカもヨーロッパも高齢化が進み、未来を担う若者が「犠牲」に

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    悪化する日中関係 悪いのは高市首相か、それとも中国か
  • 3
    「中国人が10軒前後の豪邸所有」...理想の高級住宅地「芦屋・六麓荘」でいま何が起こっているか
  • 4
    【銘柄】ソニーグループとソニーFG...分離上場で生ま…
  • 5
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後…
  • 6
    山本由伸が変えた「常識」──メジャーを揺るがせた235…
  • 7
    「ゲームそのまま...」実写版『ゼルダの伝説』の撮影…
  • 8
    南京事件を描いた映画「南京写真館」を皮肉るスラン…
  • 9
    経営・管理ビザの値上げで、中国人の「日本夢」が消…
  • 10
    筋肉の正体は「ホルモン」だった...テストステロン濃…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 3
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披露目会で「情けない大失態」...「衝撃映像」がSNSで拡散
  • 4
    「死ぬかと思った...」寿司を喉につまらせた女性を前…
  • 5
    【銘柄】ソニーグループとソニーFG...分離上場で生ま…
  • 6
    【写真・動画】「全身が脳」の生物の神経系とその生態
  • 7
    筋肉の正体は「ホルモン」だった...テストステロン濃…
  • 8
    「イケメンすぎる」...飲酒運転で捕まった男性の「逮…
  • 9
    「中国人が10軒前後の豪邸所有」...理想の高級住宅地…
  • 10
    ヒトの脳に似た構造を持つ「全身が脳」の海洋生物...…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 3
    英国で「パブ離れ」が深刻化、閉店ペースが加速...苦肉の策は「日本では当たり前」の方式だった
  • 4
    【クイズ】ヒグマの生息数が「世界で最も多い国」は…
  • 5
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後…
  • 6
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 7
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 8
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読…
  • 9
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 10
    今年、記録的な数の「中国の飲食店」が進出した国
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story