コラム

英国の緊縮財政のリアルを描く『わたしは、ダニエル・ブレイク』

2017年03月18日(土)12時30分

しかし、ブレイクの苦難はこれだけでは終わらない。彼が不服申し立てをするためには、それ以前に義務的再審査を申請しなければならないが、その結果はすぐには出ない。だからなんとか手当を得るために、とりあえず求職者手当を申請し、病気で仕事を止められているにもかかわらず求職活動を行うことになる。

パソコンに触れたこともない彼は、オンライン申請にも悪戦苦闘する。実際に求職活動をつづけていても証明が不十分と言われ、最新の履歴書を作るために講座への義務的な参加を求められる。彼は不服申し立ての機会も与えられないまま、負のスパイラルに引きずり込まれていく。

【参考記事】財政赤字を本気で削減するとこうなる、弱者切り捨ての凄まじさ

実直な人間を貶め、疲弊させ、尊厳を奪うシステム

この映画では、そんなダニエルと彼がジョブセンター・プラス(職業安定所)で出会うシングルマザーのケイティを通して、緊縮財政の現実が多面的に掘り下げられていく。ふたりの子供たちを育てるケイティは、ロンドンで暮らせなくなり、ニューカッスルにやって来た。そして、不慣れな土地で面接の約束の時間に遅れただけで給付金が受け取れなくなり、職探しもままならず、ついには食料や日用品が支給されるフードバンクに頼らざるをえなくなる。

長年コンビを組むローチと脚本家のポール・ラヴァティは、リサーチをもとに主人公たちの人物像を作り上げた。筆者が目にしたいくつかの記事によれば、住宅手当の削減や家賃の高騰によって3年間に5万世帯もの家族がロンドンを追われ、緊縮財政が実施される以前には4万人だったフードバンクの利用者が現在では110万人にまで膨れ上がっているという。

しかし、ローチは、緊縮財政の現実を単に社会問題として告発しようとしているわけではない。それが目的であれば、ドキュメンタリーの方が効果的だろう。

ダニエルは、ジョブセンター・プラスで冷酷な扱いを受けているケイティのような人間を見ると黙っていられない。彼女と子供たちのためにできるかぎりのことをしようとする。それだけに人望も厚く、困ったら力を貸してくれる友人や隣人がいる。だが彼は、自分が困ったときには、なんとか自力で解決しよう懸命に努力する。そういう人間がなぜ追いつめられなければならないのか。

この映画で浮き彫りにされるシステムは、弱者をただ冷酷に切り捨てるよりもはるかにたちが悪い。ダニエルのような実直な人間を貶め、とことん疲弊させ、尊厳を奪う。貧しいことは罪であり、罰せられるという価値観を無理やり押しつける。働きたくてもそうできないことを、働こうとしないことと巧妙にすり替え、その責任をとらせようとする。

国が存続していくうえで、財政の健全化は間違いなく重要な課題ではあるが、そのために本当に困っている市民に救いの手を差しのべないばかりか、平気で尊厳まで踏みにじるのであれば、すでに国として崩壊しているというべきだろう。


○『わたしは、ダニエル・ブレイク』
公開:3月18日(土)、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国順次公開

プロフィール

大場正明

評論家。
1957年、神奈川県生まれ。中央大学法学部卒。「CDジャーナル」、「宝島」、「キネマ旬報」などに寄稿。「週刊朝日」の映画星取表を担当中。著書・編著書は『サバービアの憂鬱——アメリカン・ファミリーの光と影』(東京書籍)、『CineLesson15 アメリカ映画主義』(フィルムアート社)、『90年代アメリカ映画100』(芸術新聞社)など。趣味は登山、温泉・霊場巡り、写真。
ホームページ/ブログは、“crisscross”“楽土慢遊”“Into the Wild 2.0”

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