コラム

テロを呼びかけるイスラームのニセ宗教権威

2016年03月30日(水)11時34分

イスラームの知識体系がデジタル化されたことで、サイバー空間上には、きちんとした宗教教育を受けていない者たちによる怪しげな宗教的言説が氾濫し、テロを使嗾している Mikko Lemola-iStock.

 4、5年前のことになるであろうか。サウジアラビア某省の顧問をやっていた、大ベテランのイスラーム法学者と議論する機会があった。何の議論をしたかというと、旧約聖書に登場する最初の人類であるアダムの身長についてである。何でそんな議論をしなければならないのか、その経緯にまで立ち入ることはできないが、そのときは、それが重要なテーマなのであった。

 イスラームの神学体系のなかでは、アダム(アラビア語ではアーダム)は最初の人類というだけでなく、最初の預言者(最後の預言者がムハンマド)でもあった。で、そのアダムの身長はいったいどれぐらいであったのか。イスラームの古典資料のなかでは、アダムの身長は60ジラーァだということでほぼ一致している。問題なのは、この「ジラーァ」が何センチなのかがはっきりわからないことだ。実はサウジのイスラーム法学者とはその議論をしたのである。

 アラビア語でジラーァとは本来、中指の先から肘までの部分を表し、ヨーロッパでの「キュビト」に相当する。日本語では「腕」にあたる。そのため「腕尺」とも呼ばれる。ジラーァを単位として用いる場合、当然、腕の長さが基準になるので、1ジラーァはだいたい50から60センチメートルということになる。

 つまり、アダムの身長はメートル法でいうと、30メートルから36メートルぐらいあったことになる。イスラーム神学ではアダムは巨人だったのである。ただし、イスラーム法学者との議論の中核は、アダムが巨人かどうかということではない。ジラーァが何センチなのかのほうである。

 わたしはあらかじめ、イスラーム研究者必携のWalther Hinz 1970. Islamische Masse und Gewichte: Umgerechnet Ins Metris, Leiden: E. J. Brillという、中東で用いられていた歴史的な度量衡を研究した「名著」で下調べしていたので、アダムの身長は約30メートルでまったく疑問も感じていなかったのだが、イスラーム法学者氏はいきなりアダムの身長は60メートルだといいだしたのである。つまり、1ジラーァは1メートルだというのだ。彼はその後、いろいろ典拠を挙げて、縷々説明してくれたのだが、こちらのアラビア語力では、イスラーム法の細かい議論についていけない(記憶があやふやなのだが、たしか腕を左右に水平に伸ばし、体の中心線から中指の先端までという説明だったと思う)。先方もそれを察したのか、やおらスマートフォンを持ち出し、いろいろ検索しはじめた。

 当時、イスラーム法学者氏は80歳近かったと思うが、充電器などで武装した、最新鋭のスマートフォンを駆使し、これこれこういう資料があると教えてくれた。ところが、その時点でこちらは、議論の中身よりも、この老学者がスマートフォンを自在に操っていることのほうが気になってしかたなくなっていたのだ(ハイテクの国からやってきた、こっちが型落ちのiPhoneしかもってないのに、という感情的な面も含めて)。

イスラームの知識体系は大半がデジタル化され、誰でも利用可能

 さて、これはけっしてサウジのお年寄りはハイテクを駆使して、若々しいという話ではない。実は現代イスラームの根源的な問題をも孕んでいるのである。この老法学者は、きちんとした宗教教育を受け、博士号ももっている大家であった。サウジの文脈でいうと、彼は、スマートフォンなどなくても必要な文献はだいたい頭のなかに入っているはずである。スマートフォンで検索したのは、筆者のような素人にテキストを見せるためにほかならない。

プロフィール

保坂修司

日本エネルギー経済研究所中東研究センター研究顧問。日本中東学会会長。
慶應義塾大学大学院修士課程修了(東洋史専攻)。在クウェート日本大使館・在サウジアラビア日本大使館専門調査員、中東調査会研究員、近畿大学教授、日本エネルギー経済研究所理事・中東研究センター長等を経て、現職。早稲田大学客員上級研究員を兼任。専門はペルシア湾岸地域近現代史、中東メディア論。主な著書に『乞食とイスラーム』(筑摩書房)、『新版 オサマ・ビンラディンの生涯と聖戦』(朝日新聞出版)、『イラク戦争と変貌する中東世界』『サイバー・イスラーム――越境する公共圏』(いずれも山川出版社)、『サウジアラビア――変わりゆく石油王国』『ジハード主義――アルカイダからイスラーム国へ』(いずれも岩波書店)など。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

冷戦時代の余剰プルトニウムを原発燃料に、トランプ米

ワールド

再送-北朝鮮、韓国が軍事境界線付近で警告射撃を行っ

ビジネス

ヤゲオ、芝浦電子へのTOB価格を7130円に再引き

ワールド

インテル、米政府による10%株式取得に合意=トラン
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:台湾有事 そのとき世界は、日本は
特集:台湾有事 そのとき世界は、日本は
2025年8月26日号(8/19発売)

中国の圧力とアメリカの「変心」に危機感。東アジア最大のリスクを考える

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果物泥棒」と疑われた女性が無実を証明した「証拠映像」が話題に
  • 2
    なぜ筋トレは「自重トレーニング」一択なのか?...筋肉は「神経の従者」だった
  • 3
    一体なぜ? 66年前に死んだ「兄の遺体」が南極大陸で見つかった...あるイギリス人がたどった「数奇な運命」
  • 4
    【写真特集】「世界最大の湖」カスピ海が縮んでいく…
  • 5
    『ジョン・ウィック』はただのアクション映画ではな…
  • 6
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 7
    中国で「妊娠ロボット」発売か――妊娠期間も含め「自…
  • 8
    顔面が「異様な突起」に覆われたリス...「触手の生え…
  • 9
    これぞ「天才の発想」...スーツケース片手に長い階段…
  • 10
    「死ぬほど怖い」「気づかず飛び込んでたら...」家の…
  • 1
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果物泥棒」と疑われた女性が無実を証明した「証拠映像」が話題に
  • 2
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに感染、最悪の場合死亡も
  • 3
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人」だった...母親によるビフォーアフター画像にSNS驚愕
  • 4
    「死ぬほど怖い」「気づかず飛び込んでたら...」家の…
  • 5
    中国で「妊娠ロボット」発売か――妊娠期間も含め「自…
  • 6
    20代で「統合失調症」と診断された女性...「自分は精…
  • 7
    頭部から「黒い触手のような角」が生えたウサギ、コ…
  • 8
    「このクマ、絶対爆笑してる」水槽の前に立つ女の子…
  • 9
    なぜ筋トレは「自重トレーニング」一択なのか?...筋…
  • 10
    「自律神経を強化し、脂肪燃焼を促進する」子供も大…
  • 1
    「週4回が理想です」...老化防止に効くマスターベーション、医師が語る熟年世代のセルフケア
  • 2
    こんな症状が出たら「メンタル赤信号」...心療内科医が伝授、「働くための」心とカラダの守り方とは?
  • 3
    「自律神経を強化し、脂肪燃焼を促進する」子供も大人も大好きな5つの食べ物
  • 4
    デカすぎ...母親の骨盤を砕いて生まれてきた「超巨大…
  • 5
    デンマークの動物園、飼えなくなったペットの寄付を…
  • 6
    ウォーキングだけでは「寝たきり」は防げない──自宅…
  • 7
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果…
  • 8
    山道で鉢合わせ、超至近距離に3頭...ハイイログマの…
  • 9
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
  • 10
    将来ADHDを発症する「幼少期の兆候」が明らかに?...…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story