【歴史解説】核開発は当然「国家の権利」...米・イランの確執の原因「攻防の歴史」を振り返る
A Durable Nuclear Deal
70年代までのイランはアメリカと緊密な同盟関係にあった。当時のモハマド・レザ・パーレビ国王は莫大な石油収入を野心的な核開発計画につぎ込み、74年6月にフランスと推定総額40億ドルの契約を締結。1000メガワットの原子炉5基の建設に着手していた(当初は85年までに完成する予定だった)。
同じく74年11月には西ドイツ(当時)のシーメンスKWUと契約し、南部ブシェールに1200メガワットの軽水炉2基を建設することにした。その契約には、原子炉完成後に西ドイツと協議の上、燃料再処理施設を建設することが明記されていた。
当時のイランはアメリカからの原子炉購入にも前向きだったが、アメリカ側は慎重だった。74年5月のインドによる初の核実験を受けて、ウラン濃縮技術の海外流出に神経をとがらせていたからだ。
もしも国王亡き後のイランに敵対的な政権が誕生したらどうなるか。アメリカにはそういう不安があった。74年6月付の国防長官宛て内部文書には「イランが核兵器製造能力を持とうとした場合、2万メガワット規模の原子力発電所で1年間に製造できるプルトニウムの量は核弾頭600~700個分に相当する」と明記されていた。
パーレビ国王の真意にも疑問があった。77年10月、CIAの精神科医ジェロルド・ポストは極秘のメモで、核問題に関する国王の発言は信用できないと指摘している。実際、当時のイラン軍部は秘密裏に核兵器関連技術の研究を進めていた。