最新記事

「国境なき医師団」を訪ねる

ヨーロッパの自己免疫疾患─ギリシャを歩いて感じたこと

2016年10月7日(金)17時00分
いとうせいこう

 俺は足に痛みを感じていた。日本にいる時から、特に右足の小指のつけ根に鈍痛があった。血液検査でも触診でもレントゲン撮影でも原因はわからなかった。アクロポリスへの坂道はぼこぼこと石畳な上、チケットを買って柵の中に入る頃には石の階段が多くなっていた。俺はある段をがくんと踏み外し、うっかり右足で体を支えたために痛んだ箇所をさらに痛めた。しかめた顔を俺は隠して歩いた。ギリシャ悲劇にそんな役があったような気がした。

1007ito4.jpg

劇場は複数あった。重要な文化拠点なのだった。

 実際、階段の途中に古代劇場の跡があった。その上方にパルテノン神殿の優美な柱が並んでいた。補修工事のクレーン車が横で目立っていた。むき出しの岩の上に左足を中心にして立ってアテネ市内を見下した。地中海が遠い南側に見え、北西すぐ下に古代アゴラがあった。人はアクロポリスで神聖なものに出会い、アゴラで政治演説を聞き、市場経済を成立させた。奴隷制の上ではあれ、市民たちの権利が打ち立てられ、暴力でなく議論によってそれは守られた。

 その都市に今、難民が押し寄せていた。彼らが市民でないことは確かだった。だが、奴隷でもなかった。ではギリシャは、ヨーロッパはどのように彼らを位置づけ、共存していくのか。それがわからなくなっていた。

 ギリシャが先進国であるからこそ、MSFが難民ケアのために必要とする薬剤が安く買えないという話も、帰りに寄ったカフェでのランチ中に聞いた。途上国での活動であれば途上国向けの安価な価格設定も利用できるのだが、ギリシャで使うとなると適応から外れてしまう。先進国内で使用される以上、一般価格になってしまうというのだった。

 全体に、まるで免疫不全のような話なのだった。先進国である自己と、逃げてくる難民という他者が分けられなくなっていた。いや他者として敬して扱おうにも、例えば使う薬の価格が先進国のレベルなのだから、"自己のようなもの"になる。ひとつであるはずのEUのアイデンティティを、難民問題が分裂させ交差させ錯乱させていた。

 なぜ彼らがそうなるのかの根っこの部分を、俺は他の取材で知ることになるのだが、ともかくその日、梶村智子さんにつきあってもらってアテネ随一の観光地へ足を伸ばした俺は、その古代的精神の中心地でひとつも解決していない問題の根の深さ、同時にそこに関わろうとする人たちの苦悩のようなものを知り、かすかに足を引きずりながら少し宿舎で休もうと地下鉄の駅へ向かうのだった。

 そして夜、今度はMSFギリシャの面々から興味深い話を様々聞くことになる。

 難問の前でギリシャ市民がどのように対応しているかを、次回ははっきりと思い出すことにしたい。

 いやその前に、現在カタール航空ドーハ発羽田行きQR813で帰国の途に着いている俺は、少し先に智子さんに起こる心の変化を予言のように語っておかねばならない。


 彼女はMSFの活動をもうひとつ続けることにし、ナイジェリアへと旅立つのだ。

(つづく)

profile-itou.jpegいとうせいこう(作家・クリエーター)
1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエーターとして、活字・映像・音楽・舞台など、多方面で活躍。著書に『ノーライフキング』『見仏記』(みうらじゅんと共著)『ボタニカル・ライフ』(第15回講談社エッセイ賞受賞)など。『想像ラジオ』『鼻に挟み撃ち』で芥川賞候補に(前者は第35回野間文芸新人賞受賞)。最新刊に長編『我々の恋愛』。テレビでは「ビットワールド」(Eテレ)「オトナの!」(TBS)などにレギュラー出演中。「したまちコメディ映画祭in台東」では総合プロデューサーを務め、浅草、上野を拠点に今年で9回目を迎える。オフィシャル・サイト「55NOTE

※当記事はYahoo!ニュース 個人からの転載です。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

アングル:日銀利上げ容認へ傾いた政権、背景に高市首

ビジネス

「中国のエヌビディア」が上海上場、初値は公開価格の

ワールド

米司法長官、「過激派グループ」の捜査強化を法執行機

ワールド

トランプ政権、入国制限を30カ国以上に拡大へ=国土
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:日本時代劇の挑戦
特集:日本時代劇の挑戦
2025年12月 9日号(12/ 2発売)

『七人の侍』『座頭市』『SHOGUN』......世界が愛した名作とメイド・イン・ジャパンの新時代劇『イクサガミ』の大志

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    戦争中に青年期を過ごした世代の男性は、終戦時56%しか生き残れなかった
  • 2
    イスラエル軍幹部が人生を賭けた内部告発...沈黙させられる「イスラエルの良心」と「世界で最も倫理的な軍隊」への憂い
  • 3
    高市首相「台湾有事」発言の重大さを分かってほしい
  • 4
    【クイズ】17年連続でトップ...世界で1番「平和な国…
  • 5
    「ボタン閉めろ...」元モデルの「密着レギンス×前開…
  • 6
    日本酒の蔵元として初の快挙...スコッチの改革に寄与…
  • 7
    ロシアはすでに戦争準備段階――ポーランド軍トップが…
  • 8
    「ロシアは欧州との戦いに備えている」――プーチン発…
  • 9
    見えないと思った? ウィリアム皇太子夫妻、「車内の…
  • 10
    【トランプ和平案】プーチンに「免罪符」、ウクライ…
  • 1
    7歳の息子に何が? 学校で描いた「自画像」が奇妙すぎた...「心配すべき?」と母親がネットで相談
  • 2
    100年以上宇宙最大の謎だった「ダークマター」の正体を東大教授が解明? 「人類が見るのは初めて」
  • 3
    戦争中に青年期を過ごした世代の男性は、終戦時56%しか生き残れなかった
  • 4
    128人死亡、200人以上行方不明...香港最悪の火災現場…
  • 5
    イスラエル軍幹部が人生を賭けた内部告発...沈黙させ…
  • 6
    【銘柄】関電工、きんでんが上昇トレンド一直線...業…
  • 7
    【クイズ】世界遺産が「最も多い国」はどこ?
  • 8
    人生の忙しさの9割はムダ...ひろゆきが語る「休む勇…
  • 9
    【クイズ】17年連続でトップ...世界で1番「平和な国…
  • 10
    日本酒の蔵元として初の快挙...スコッチの改革に寄与…
  • 1
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 2
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 3
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 4
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 5
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸…
  • 6
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 7
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
  • 8
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 9
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 10
    インド国産戦闘機に一体何が? ドバイ航空ショーで…
トランプ2.0記事まとめ
Real
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中