最新記事

科学

ボトックスの意外な効果

顔の筋肉を麻痺させるシワ取り注射が、怒りや悲しみの感情まで遮断してくれる?

2010年4月14日(水)15時18分
シャロン・ベグリー(サイエンス担当)

 ボトックス注射をした私の友人はみんな穏やかで幸せそうだ。それはこの神経毒を数回注入すれば額やみけんのしわが消えて見た目が実年齢より若くなり、疲れて気難しい人に見えなくなるから......と思っていた。

 しかし、それは大きな思い違いだったようだ。ある興味深い研究によれば、ボトックスは人が怒りを感じたときのしかめっ面を作る筋肉を麻痺させることで、怒りの感情の回路そのものを遮断してしまうという。

 心理学の世界には、顔の表情が感情をつくり出すという「顔面フィードバック仮説」がある。唇と頬を無理やり笑う形にすると、実際に幸せを感じ、眉をひそめると不快な気分になるというものだ。

 この研究に基づいて、米ウィスコンシン大学マディソン校の大学院生デービッド・ハバスは、みけんを寄せるときに使う皺眉筋をボトックス注入によって麻痺させた人を調査することにした。ボトックス療法が、特定の感情を抱く能力に影響を与えるかどうかを確かめるためだ。

怒りの文章を理解できず

 ボトックスが怒りなどの感情を伝える能力に影響することは分かっている。同じメカニズムで、鬱病を軽減する可能性も報告されている。強制的に悲しい表情ができないようにすれば、悲しむ感情が起きなくなるということだ。

 ハバスの実験では、ボトックスの影響はそれ以上だということが分かった。彼は2週間後にボトックス注射を予定している40人に、特定の感情を引き起こさせる文章を読ませた。「しつこい勧誘の電話で夕食を邪魔されている」→怒り、「誕生日にメールをチェックしたら空だった」→悲しみ、「夏の暑い日に気持ちよく水浴び」→幸せ。被験者にはそれぞれの文章を読んだ後、内容を理解した瞬間に、それを告げるボタンを押してもらった。

 2週間後、ボトックス注射を打った被験者を集め、今度は違う文章を使って同じ実験を行った。すると幸せな気分を伝える文章の場合、ボタンを押す速さは変わらなかった。だが怒りと悲しみを表す文章の場合は、読んで理解するまでの時間が長くなった。怒りと悲しみを表現する筋肉が麻痺したために、前ほど容易に理解できなくなっていたのだ。

 この実験は、ボトックスが言語の感情的な内容を理解する能力に影響することを示す最初の研究となった。「通常は脳からしかめっ面をする信号が末梢神経に送られ、次にどの程度しかめたかという情報が脳に送り返される」と、ウィスコンシン大学マディソン校の名誉教授(心理学)でハバスの指導教官でもあるアーサー・グレンバーグは言う。「だがここではその回路が妨害され、言語によって表された感情の強さとそれを理解する能力が遮断されている」

身体と感情は連動する

 グレンバーグによれば、たとえコンマ数秒の遅れであっても問題になり得る。「会話をしている間、人は互いの思いや意図、感情移入などについて、どんなにかすかな反応も見逃そうとしない。相手の反応が少しでも遅れると、相手はこちらの言いたいことを理解していないと思うものだ」

 この研究は人間の認知プロセスはすべて身体に根差し、身体に反映されると仮定する「身体性認知」という新しい分野のものだ。

 身体性認知の研究では、既にいくつもの例が発見されている。例えば、人は将来の出来事について話すときは前のめりになり、過去について議論するときは後方にもたれ掛かる。熱いコーヒーのマグカップを持っているときはアイスカフェラテのグラスを持っているときよりも、他人を温かく友好的だと判断する。自分が犯した道徳的な罪について考えると、無性に手を洗いたくなる。

 身体が私たちの思考や感情の単なる傍観者でないことは明らかだ。少なくともボトックスを打つ前までは。

[2010年3月10日号掲載]

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ワールド

アングル:高級品業界が頼る中東富裕層、地政学リスク

ワールド

トランプ氏、イラン制裁解除計画を撤回 必要なら再爆

ワールド

トランプ氏、金利1%に引き下げ希望 「パウエル議長

ワールド

トランプ氏「北朝鮮問題は解決可能」、金正恩氏と良好
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:世界が尊敬する日本のCEO
特集:世界が尊敬する日本のCEO
2025年7月 1日号(6/24発売)

不屈のIT投資家、観光ニッポンの牽引役、アパレルの覇者......その哲学と発想と行動力で輝く日本の経営者たち

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で大爆発「沈みゆく姿」を捉えた映像が話題に
  • 2
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門家が語る戦略爆撃機の「内側」と「実力」
  • 3
    突然ワニに襲われ、水中へ...男性が突いた「ワニの急所」とは
  • 4
    富裕層が「流出する国」、中国を抜いた1位は...「金…
  • 5
    ロシア人にとっての「最大の敵国」、意外な1位は? …
  • 6
    夜道を「ニワトリが歩いている?」近付いて撮影して…
  • 7
    韓国が「養子輸出大国だった」という不都合すぎる事…
  • 8
    伊藤博文を暗殺した安重根が主人公の『ハルビン』は…
  • 9
    定年後に「やらなくていいこと」5選──お金・人間関係…
  • 10
    【クイズ】北大で国内初確認か...世界で最も危険な植…
  • 1
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 2
    妊娠8カ月の女性を襲ったワニ...妊婦が消えた川辺の「緊迫映像」
  • 3
    「小麦はもう利益を生まない」アメリカで農家が次々と撤退へ
  • 4
    定年後に「やらなくていいこと」5選──お金・人間関係…
  • 5
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 6
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門…
  • 7
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測…
  • 8
    飛行機内で「最悪の行為」をしている女性客...「あり…
  • 9
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事…
  • 10
    サブリナ・カーペンター、扇情的な衣装で「男性に奉…
  • 1
    日本の「プラごみ」で揚げる豆腐が、重大な健康被害と環境汚染を引き起こしている
  • 2
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 3
    一瞬にして村全体が消えた...スイスのビルヒ氷河崩壊の瞬間を捉えた「恐怖の映像」に広がる波紋
  • 4
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測…
  • 5
    妊娠8カ月の女性を襲ったワニ...妊婦が消えた川辺の…
  • 6
    庭にクマ出没、固唾を呑んで見守る家主、そして次の…
  • 7
    大爆発で一瞬にして建物が粉々に...ウクライナ軍「Mi…
  • 8
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事…
  • 9
    「ママ...!」2カ月ぶりの再会に駆け寄る13歳ラブラ…
  • 10
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中