大河『豊臣兄弟!』の主役豊臣秀長の真の姿――大和郡山城に刻まれた統治者の性格
天守はあったのか、なかったのか
本丸北方にそびえる天守台の石垣には、象徴的な転用石を見ることができる。ひとつは天守台北側の下部にあり、大永3年(1523)の銘文がある「逆さ地蔵」で、全高110センチほどの石仏が、石垣の隙間から奥に見える。ちなみに、地蔵自体は城全体で200程度見つかっている。また、南東の隅角部の下方にある石材は、平城京の羅城門の礎石だったといわれる。
ところで、大和郡山城は天守に関する史料がなかったことから、天守台の石垣はあっても天守は建てられなかった、という見方が長いあいだ根強かった。
しかし、平成26年(2014)の発掘調査で、天守台の上に東西南北に並ぶ礎石が発見され、1階面積が7間×8間の天守(5階建て相当)が建っていたことが確実になった。天守台南側には付櫓台があり、そこから地階の石垣が発見されたので、付櫓の地下から天守に入る構造だったこともわかった。さらには、天守の礎石の一部にまで、石塔などから転用した石が使われていた。
天守台からはたくさんの瓦も出土した。なかでも左三つ巴紋の軒丸瓦は、秀吉の大坂城のものと同范、すなわち同じ型からつくられており、そのことからも、大和郡山城が豊臣政権下において、どれだけ重要視されていたかがわかる。また、付櫓台からは金箔瓦も掘り出されている。
豊臣時代、秀長がここに建てたのは、豪壮な天守だったと思われる。関ヶ原合戦後に解体されたのち(二条城に移築されたと伝わる)、ふたたび天守が建てられた形跡はなく、それだけに、この天守台は秀長の時代の原型をよく留めていると考えられる。
天守台からの景色が意味すること
秀長による大和の統治が、豊臣政権にとっていかに重要だったか。そのことは、天正13年(1585)9月3日に秀長がはじめて入城した際、秀吉とともに5000の軍勢を率いてのことだった、という史実からも伝わる。
その際、興福寺の大乗院や一条院の門跡、東大寺の寺僧らが出迎えたが、そうした古代以来の権門の力を、自身の統治下にまとめ上げることも秀長の任務だった。そのためには大和の政治や経済の中心を、奈良から大和郡山に移すことが必要で、秀長は城に入って間もない10月14日、奈良で商売することを禁止し、その後は一切の商売を大和郡山で行うように命じた。
こうした統治の中核が大和郡山城だった。いまも天守台に登ると、奈良盆地が東大寺や興福寺の方面まで一望できる。豪壮な天守の最上階からは、さらにすべてが一望のもとだっただろう。この景色自体がいまなお、大和郡山城と秀長の位置づけを伝えてくれる。

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