ディズニーランド誕生秘話──失敗必至と言われたテーマパークが、なぜ世界を変えたのか
Wishing on a Star
建設中のディズニーランド内を歩くウォルト・ディズニー(1955年4月、アナハイム) AP/AFLO
<70年前、カリフォルニアのオレンジ畑に誕生したディズニーランドは、当時「無謀」とさえ言われた計画だった。資金難と反対の声に囲まれながら、ウォルト・ディズニーはなぜ人生最大の賭けに踏み切ったのか。その舞台裏をたどる>
▼目次
資金は常に不足...「正気じゃない」と思われても
ディズニーランドがこれほど成功した理由
ウォルト・ディズニーが見る夢はいつも大きかった。身近な人には妄想だとか、無謀な賭けだと言われることもあった。そして、彼が見た夢の中で、ディズニーランドほど大きな賭けはなかった。
全ては1923年に始まった。ウォルトが兄のロイと立ち上げたウォルト・ディズニー・スタジオは、キャラクターと物語の力で世界的なブランドに成長した。ディズニーの魔法を一目見ようと、大勢の観光客がこのアニメーションスタジオに押し寄せた。しかし、「魔法」はごく普通のオフィスや防音壁の内側でつくられていた。
ドワイト・アイゼンハワー元米大統領は、「解決できない問題に直面したときは、あえて大きく考える」と言った。ウォルトも同じアプローチで、落胆する観光客を満足させようと考えた。こうしてディズニーランドが誕生した。
歴史愛好家のアレックス・アドラーは、筆者のポッドキャスト「アワー・アメリカン・ストーリーズ」で当時のエピソードを語ってくれた。
ロイは会社の最高執行責任者であり「最高懐疑論者」でもあった。ウォルトの妻リリアンも、「遊園地なんて不潔だし危険よ」と言った。
「まさにそこが問題だ」とウォルトは返した。「私が造るものは違う」
ウォルトは複数の建築家に設計を依頼したが、大御所のウェルトン・ベケットにこう言われた。「ディズニーランドは誰にも設計できない。この魔法の王国は、あなたの(スタジオの)人材で造るしかない」
ロイは資金の確保に苦労した。ウォルトは生命保険を担保に5万ドルを借り、パームスプリングスの別荘を売った。夫婦の金を10万ドル以上、使ったことを知って、リリアンは激怒したという。
転機は1つの「拒否」だった。スタジオがあるカリフォルニア州バーバンクの市議会が、51年にテーマパークの建設計画を却下したのだ。
ウォルトは構想を縮小するのではなく、理想の場所を探した。そして、カリフォルニア州アナハイムというのどかな田舎町で、オレンジとクルミの果樹園が広がる約80万平方メートルの土地が見つかった。手頃な価格で、当時建設中だったハイウエーに近く、ロサンゼルスとサンディエゴの両方とアクセスが良かった。





