最新記事

言語学

母語は今やサビつかない

2021年11月24日(水)14時50分
平野卿子(ドイツ語翻訳家)

「おじさん」と「おじいさん」の区別に驚くアキコさん

それから10年後の70年代終わり、わたしはアメリカでアキコさんという日本女性と知り合った。

10歳の時に一家で広島から移住し、アメリカ人男性と結婚して、男の子がひとりいた。当時、彼女は28歳。両親のほかにはほとんど日本人との付き合いがなく、日本語を忘れてしまったというアキコさんだが、どうにか意思の疎通はできた。

あるとき、アキコさんが「おじさん」と「おじいさん」の区別がつかないことにわたしは軽いショックを受けた。説明すると、彼女は目を丸くして、「日本語っておもしろいね! おじさんとおじーさん、音を伸ばすかどうかで全然違う意味になる!」と驚いたのである。

母語というのは意識せずに使っているものだ。「ゆき(雪)」と「ゆーき(勇気)」、「ごかい(誤解)」と「ごーかい(豪快)」、「おの(小野)」と「おーの(大野)」と枚挙にいとまがない。言われてはじめて母音の長短で意味がすっかり変わってしまうことにわたしは気づいた。

計算は母語で?

そんなアキコさんだが、まったくサビついていない日本語があった。計算するときにはかならず日本語だったのだ。そのとき、日本語、とくに九九は短くてテンポがよく覚えやすい、おまけに数字が簡略なので計算も早いという話を思い出した。たしかに同じ「19」でも「じゅうく」というのと「ナインティーン」とでは時間差がある。

だからアキコさんが日本語で計算したのをみたときに、やっぱりそうなんだとひとりごちたのだった。

ところが今から数年前、60年も続いている鎌倉のドイツレストランに40年ぶりに行った時のこと。今や80代とおぼしきドイツ人の女主人は変わらず元気で日本語を流暢に話していたが、支払いの時に、打ち間違えたからと言って紙に書いて計算をやりなおした。

その時、おどろいたことに突然ドイツ語になったのだ。思わず「あら、ドイツ語なんですね」と言ったところ、彼女は「計算は今でもこっちの方が早いので」と答えたのである。

日本にきて半世紀以上になるはずなのに......とわたしは驚いたが、そのときふと頭にうかんだのは、別人に成りすましていた外国人の犯人が、うっかり母語で計算したために捕まってしまうというオチのドイツの推理小説だった。

今、あなたにオススメ

関連ワード

ニュース速報

ビジネス

米新規失業保険申請、3.3万件減の23.1万件 予

ビジネス

英中銀が金利据え置き、量的引き締めペース縮小 長期

ワールド

台湾中銀、政策金利据え置き 成長予想引き上げも関税

ワールド

UAE、イスラエルがヨルダン川西岸併合なら外交関係
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:世界が尊敬する日本の小説36
特集:世界が尊敬する日本の小説36
2025年9月16日/2025年9月23日号(9/ 9発売)

優れた翻訳を味方に人気と評価が急上昇中。21世紀に起きた世界文学の大変化とは

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「日本を見習え!」米セブンイレブンが刷新を発表、日本では定番商品「天国のようなアレ」を販売へ
  • 2
    中国は「アメリカなしでも繁栄できる」と豪語するが...最新経済統計が示す、中国の「虚勢」の実態
  • 3
    燃え上がる「ロシア最大級の製油所」...ウクライナ軍、夜間に大規模ドローン攻撃 国境から約1300キロ
  • 4
    1年で1000万人が死亡の可能性...迫る「スーパーバグ…
  • 5
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
  • 6
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 7
    【クイズ】世界で最も「リラックスできる都市」が発…
  • 8
    中国山東省の住民が、「軍のミサイルが謎の物体を撃…
  • 9
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 10
    中国経済をむしばむ「内巻」現象とは?
  • 1
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影...目覚めた時の「信じがたい光景」に驚きの声
  • 2
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれば当然」の理由...再開発ブーム終焉で起きること
  • 3
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサイルが命中、米政府「機密扱い」の衝撃映像が公開に
  • 4
    【クイズ】次のうち、飲むと「蚊に刺されやすくなる…
  • 5
    科学が解き明かす「長寿の謎」...100歳まで生きる人…
  • 6
    「二度見した」「小石のよう...」マッチョ俳優ドウェ…
  • 7
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 8
    【クイズ】世界で1番「島の数」が多い国はどこ?
  • 9
    「なんて無駄」「空飛ぶ宮殿...」パリス・ヒルトン、…
  • 10
    観光客によるヒグマへの餌付けで凶暴化...74歳女性が…
  • 1
    「4針ですかね、縫いました」日本の若者を食い物にする「豪ワーホリのリアル」...アジア出身者を意図的にターゲットに
  • 2
    【クイズ】世界で唯一「蚊のいない国」はどこ?
  • 3
    「まさかの真犯人」にネット爆笑...大家から再三「果物泥棒」と疑われた女性が無実を証明した「証拠映像」が話題に
  • 4
    信じられない...「洗濯物を干しておいて」夫に頼んだ…
  • 5
    「最悪」「悪夢だ」 飛行機内で眠っていた女性が撮影…
  • 6
    「レプトスピラ症」が大規模流行中...ヒトやペットに…
  • 7
    「あなた誰?」保育園から帰ってきた3歳の娘が「別人…
  • 8
    「中野サンプラザ再開発」の計画断念、「考えてみれ…
  • 9
    「我々は嘘をつかれている...」UFOらしき物体にミサ…
  • 10
    プール後の20代女性の素肌に「無数の発疹」...ネット…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story
MOOK
ニューズウィーク日本版別冊
ニューズウィーク日本版別冊

好評発売中