コラム

「二島?ゼロ島?」日露交渉の異常性に危険はないか?

2011年02月14日(月)12時59分

 メドジェーベフ大統領による「北方領土政策」は、大統領自身による国後島視察、閣僚級の視察などが繰り返される中、菅首相が「暴挙」という言葉を使ったことに猛反発を見せる中で、外相会談が行われました。日ソ国交回復から半世紀以上、この間の日本の対ソ連、対ロシア外交は漠然と「四島返還」を模索してきましたが、その大前提としてあったのは「歯舞・色丹の二島」については、ロシアは「いつでも返してくれる」という理解でした。

 この「二島ならいつでもオーケー」という前提は、1956年の鳩山一郎の日ソ共同宣言に「二島返還で平和条約」という形でハッキリとうたわれていました。これに対して「四島返還」を大前提とすることで平和条約を先送りする、あるいは裏返して言えば、平和条約を先送りすることで四島返還の可能性を消さないというのが、自民党政権のこの問題に関する骨格であったのだと思います。例えば2002年の鈴木宗男氏の失脚劇は、同氏がこの「自民党の申し送り事項」に背いて「二島先行返還論」に突っ走ったことが自民党の中枢に危機感を持たせたからだと私は見ています。

 自民党が「四島」にこだわったことのの理由は、2つあると思います。1つは自民党という政党が「領土ナショナリズム」にフレンドリーであったということ、言い換えれば自分たちの権力の源泉は領土に関して「こだわる人」の心情にあると直感的に理解していたことです。もう1つは、鈴木失脚劇と北朝鮮核問題が同時期に出てきたように、歴代のアメリカの政権が「日本のナショナリズムが暴走しない範囲でやや強め」になることが、極東地域の安全保障バランスの上で全てをコントロールする上でメリットがあるという計算をしていた、その点で日本からロシアに対しては「四島にこだわる」バネのような力が北向きに加わっている状態での均衡を歓迎していたからだと思います。

 そうした状態が長く続いたにも関わらず、「二島だけでイイよ、と言いさえすれば二島はいつでも返ってくる」というのが、自民党だけでなく日本の政界全体の理解でした。現在進行している事態は、その大前提が崩れているように見えます。まるで歯舞、色丹までロシアは握って離さないようにも見えるのです。「二島どころかゼロ島」ともいうような何とも異常な事態です。前原外相は、「菅首相の『暴挙』発言」に対するロシアのラブロフ外相による非難への切り返しとして、これは国民の総意だと大見得を切りました。一方で、ロシア側は揚陸強襲艦をこの地域に派遣するとか、国後択捉開発には中韓の資本を歓迎するというのですから穏やかではありません。

 とにかくイヤなムードなのですが、政治的に考えてみると現状はある意味で「興味深い状況」だとも考えられます。もう少しロシアが押し続けて、日本が更に反発を示すような事態が続き「本当にゼロ島返還になるのでは?」という恐怖や怒りが増大すると奇妙な条件が整うからです。「もしかしたらゼロ島では?」という雰囲気が十分に醸成されたあとで、「ロシアが二島すなわち歯舞・色丹の返還」を口にするとどうなるでしょう? ロシアのメドジェーベフ政権に対する日本のイメージは一気に「好転」します。同時に日本のその時点の政権も「ゼロ島返還という危機を押し戻して二島を取り返した」というイメージを発生させることが可能になります。

 そのムードは日本の世論にとっては、過去54年間にわたって日露の懸案であった「平和条約締結」を受け入れる環境を整えることにもなります。日本のその時点の政権にとっては、相当な浮揚ファクターにすることができるでしょう。同時にメドジェーベフ政権としても、次回のロシア大統領選を2012年3月に控えて「重要な国後・択捉の領有権を日本に認めさせた」ということは、外交的・政治的な得点になり得ます。プーチン再登板期待論をはね返すだけの材料になるかもしれません。

 私は民主国家の政治において、陰謀説は事前事後の解説共に避けるべきだと考える者ですが、ここまで当事国双方の政権当局に「うま味」のある話だと、もしかしたらという勘ぐりをしたくなってしまうのです。日ソ共同宣言当時の鳩山一郎首相の孫である由紀夫氏が首相退任後も日露外交に関与していることも、全くの偶然とは思えません。そうだとしたら、これは許しがたい陰謀なのでしょうか? たとえ裏で話ができているのでなくても、仮にこのまま「ゼロ島」というムードが続いた場合には、事態打開のために何らかのトップ交渉で「二島」となり、更には平和条約に進むという可能性は否定できません。仮にそうなったとしたら、それは「四島」を放棄する屈辱的な決定になるのでしょうか? 

 私はその評価にはあまり関心はありません。というのは、四島を含む全千島の先住民はアイヌであり、樺太と千島にわたって広く文化圏を築いていたアイヌを人類史上最も悪質な形で「民族浄化」した責任は日露両国にあるからです。一方でアイヌの文化には「戦いを好まない」という特質があり、1970年前後にアイヌの人権を守ると称して爆弾テロを行った非アイヌの凶行なども、二重三重にアイヌの名誉を傷つけたという理解が必要のように思います。一方で明治期以降にアイヌの代わりに入植した千島や樺太からのいわゆる引揚者の方々の苦難も理解しているつもりですが、さりとて彼等の総意が憎悪の拡大にあるとも思えません。

 アイヌの悲劇的な歴史、いわゆる引揚者の方々やその子孫の苦難に満ちた道のりを考えると、安易にそれを領土ナショナリズムに結びつけることはできないのです。そう考えると、何らかの形で憎悪や流血の可能性が減るのであれば、それも歴史の大きな流れとも思えます。後はとにかく、日本の世論が決めることとしか申せません。

 ただ、仮に二島返還と平和条約で、この地域の日露関係が好転した場合には、北海道全域におけるロシア経済の影響力は増大する可能性があります。仮に将来のある時点で、北海道におけるロシア経済への依存度、ロシア文化の浸透度がある臨界点を超えた場合に、この地域の日本人の生活における幸福度が下がってゆく中で、北海道の社会に不安定な状況が生まれる危険があるように思います。そうならないためにも、北海道と本州の経済・社会の関係をより濃密にしておくことは必要と思います。やや「風が吹けば桶屋が」的な飛躍のある発想かもしれませんが、二島返還を呑むのであれば、最低限、北海道新幹線の「新函館=札幌」は早期に全線着工しておくべきだと思うのです。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

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