コラム

追悼、寺田博氏を送る

2010年03月08日(月)12時29分

 寺田博氏の訃に接し、涙が止まりませんでした。

 純文学の時代が終わったといった種類の感慨ではありません。80年代に福武書店(現ベネッセ)でご一緒していた時代に、時には営業部門で寺田氏の作られた本を売る立場にあり、時には経営の側から出版という特殊な人材の求められる分野でどう人を育てるか、ある意味お手伝いをしていたこともありました。その際に十分なお役に立てなかった悔いのようなもの、それは少しはあるかもしれません。

 ですが、そんなことはどうでも良いのです。寺田氏は、やはり素晴らしい仕事を残された、その巨大さへの思い、それが訃報に接してこみ上げてきた、そういうことだと思います。アメリカにおりますと、寺田氏の手がけてきた作家たち、中上健次やよしもとばななといった作家の存在感は、今でも大変なものがあります。そのことを思うとき、決して表舞台には出ない存在でありながら、編集者として作家達と格闘してきた寺田氏の姿が、改めて忍ばれるのです。

 私は編集部に在籍したことはないのですが、何度かそうした作家の方々と寺田氏の対話に同席させてもらったことがあります。それは、「作家と編集者といったスノッブな知識階級が、酒場でサロンのようにぬくぬくと交友を続けている」といったイメージとは対極にあるものでした。寺田氏は、本当に作家達に全人格を、全思想を吐き出させ、それを受け止め、時にはそれと格闘していたのです。

 その最たる例は、中上健次氏でしょう。氏の作品の持つ粗暴さや繊細さ、今でも多くの人の心をつかんで引きずり回すような説得力は、寺田氏の存在なくしては書かれることはなかったように思います。編集者とは、まずもって作家の最初の読者であり、また一字一句にまで仕上げる際の創作のパートナーであり、また作品のメッセージを本という形で世に送るメッセンジャーでもある、寺田氏の仕事には、その全てを一貫させる迫力がありました。

 その意味で、文字表現の媒体が印刷された活字から、インターネットに移行し、しかも初稿から最終読者に届くまでのプロセスが信じられないように簡略化した現代では、中上=寺田コンビが送り出したような言語のパワーが見られないのはある種当然のことなのかもしれません。ですが、そうであっても、仮にネット上の言葉であっても、起稿から数時間で読まれるようなスピーディーな時代であっても、表現者と読者の間には妥協のない思想上の葛藤や、全人格、全存在を賭けた対決があっても良いのだと思います。

 いわゆる炎上とか、ネット上の罵倒というと、ネガティブな現象に捉えられがちですが、どちらも表現者に対して読者が対決してきているというのは間違いないわけで、表現の側はそこからは逃れられないのだと思います。その意味で、今よりももっと深い危機感や思想対立のあった時代に、寺田氏は読者を代表して作家と真剣勝負を繰り広げていたのだと思うと、改めて頭の下がる思いがします。

 享年76歳。早すぎる死、永遠の不在という淋しさに加えて、その訃報にはある種の完結感がありました。それもまた悲しいものに違いありません。心よりご冥福をお祈りいたします。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

あわせて読みたい
ニュース速報

ワールド

ウクライナ、和平案の枠組み原則支持 ゼレンスキー氏

ビジネス

米9月PPI、前年比2.7%上昇 エネルギー高と関

ビジネス

米中古住宅仮契約指数、10月は1.9%上昇 ローン

ビジネス

米9月小売売上高0.2%増、予想下回る 消費失速を
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:ガザの叫びを聞け
特集:ガザの叫びを聞け
2025年12月 2日号(11/26発売)

「天井なき監獄」を生きるパレスチナ自治区ガザの若者たちが世界に向けて発信した10年の記録

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるようになる!筋トレよりもずっと効果的な「たった30秒の体操」〈注目記事〉
  • 2
    【銘柄】イオンの株価が2倍に。かつての優待株はなぜ成長株へ転生できたのか
  • 3
    老後資金は「ためる」より「使う」へ──50代からの後悔しない人生後半のマネープラン
  • 4
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 5
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判…
  • 6
    放置されていた、恐竜の「ゲロ」の化石...そこに眠っ…
  • 7
    マムダニの次は「この男」?...イケメンすぎる「ケネ…
  • 8
    AIの浸透で「ブルーカラー」の賃金が上がり、「ホワ…
  • 9
    使っていたら変更を! 「使用頻度の高いパスワード」…
  • 10
    トランプの脅威から祖国を守るため、「環境派」の顔…
  • 1
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸送機「C-130」謎の墜落を捉えた「衝撃映像」が拡散
  • 2
    「髪形がおかしい...」実写版『モアナ』予告編に批判殺到、そもそも「実写化が早すぎる」との声も
  • 3
    ポルノ依存症になるメカニズムが判明! 絶対やってはいけない「3つの行動」とは?【国際研究チーム】
  • 4
    膝が痛くても足腰が弱くても、一生ぐんぐん歩けるよ…
  • 5
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 6
    マムダニの次は「この男」?...イケメンすぎる「ケネ…
  • 7
    AIの浸透で「ブルーカラー」の賃金が上がり、「ホワ…
  • 8
    「まじかよ...」母親にヘアカットを頼んだ25歳女性、…
  • 9
    海外の空港でトイレに入った女性が見た、驚きの「ナ…
  • 10
    【銘柄】イオンの株価が2倍に。かつての優待株はなぜ…
  • 1
    【クイズ】本州で唯一「クマが生息していない県」はどこ?
  • 2
    東京がニューヨークを上回り「世界最大の経済都市」に...日本からは、もう1都市圏がトップ10入り
  • 3
    一瞬にして「巨大な橋が消えた」...中国・「完成直後」の橋が崩落する瞬間を捉えた「衝撃映像」に広がる疑念
  • 4
    「不気味すぎる...」カップルの写真に映り込んだ「謎…
  • 5
    【写真・動画】世界最大のクモの巣
  • 6
    高速で回転しながら「地上に落下」...トルコの軍用輸…
  • 7
    英国で「パブ離れ」が深刻化、閉店ペースが加速...苦…
  • 8
    「999段の階段」を落下...中国・自動車メーカーがPR…
  • 9
    【クイズ】クマ被害が相次ぐが...「熊害」の正しい読…
  • 10
    まるで老人...ロシア初の「AIヒト型ロボット」がお披…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story