コラム

熱狂なき蔡英文の就任演説に秘められた「問題解決」への決意

2016年06月06日(月)16時33分

 ここから浮かび上がるのは、蔡英文という人間は、限りなく問題解決志向のリーダーであるということだ。問題解決志向のリーダーの特徴は、歴史に名前を残すということに、あまりこだわりがないことである。逆に言うと、自分のリーダーシップによって社会が改善することに喜びを見いだすタイプである。日本でいえば、宮澤喜一や池田勇人が当たるだろうか。そして、これまで台湾の指導者には、問題解決志向のリーダーは少なく、蒋介石、李登輝、陳水扁、馬英九はいずれも理念志向であった。しかし、蔡英文はその誰とも似ていない。強いて言うなら、異論はあるかもしれないが、蒋経国だろうか。エリートで他人をあまり簡単には信頼しない点は馬英九と似ているとも言われるが、理念や理想を掲げ、歴史を振り返ることが大好きな馬英九とは本質的に違っている気がする。蔡英文の演説からは「歴史観」も伝わってこない。

 確かに、台湾においては、すでに「理念の戦い」は終わった。台湾社会の最大の課題であった「台湾人とは何者か」というアイデンティティ問題については、自分は台湾人であるが中国人ではないと考える人の割合が7割を超え、「中国か台湾か」の理念上の問題は「台湾」の勝利という形で決着がついている。その台湾において、もはや理念型のリーダーは必要とされず、理念の戦いの間に放置されてきた多くの現実的課題について「大掃除」をしてくれる指導者が必要とされているのは確かだろう。

 蔡英文の演説には、歴史に残るような名言もなければ、国際ニュースのヘッドラインになるような主張もない。注目された対中政策における「92年コンセンサス」への言及にしても完全に予想の範囲内であり、「一つの中国」原則を認めろという中国の要望を、するりとかわした形であった。しかし、それで蔡英文はいいと考えているはずだ。外交、両岸では無理をしない。やるべきことは、台湾社会をより良く変革する政策なのである。

【参考記事】「台湾は中国の島」という幻想を砕いた蔡英文の「血」

対立の時代に終止符を打つ宣言

 蔡英文は演説の最後に、「イデオロギーに縛られない団結の民主」と、「社会と経済の問題に対応できる効率よい民主」、そして、「人々を実質的にケアする実務の民主」を、自分はこれから打ち立てていくと明らかにした。

 これは、台湾の民主が、対立の時代に終止符を打つことの宣言にほかならない。「グリーン=民進党」と「ブルー=国民党」の二大陣営にわかれて争ってきた総統直接選挙導入以来のこの20年に終止符を打つという表明である。

 そして、最後をこう締めくくった。

プロフィール

野嶋 剛

ジャーナリスト、大東文化大学教授
1968年、福岡県生まれ。上智大学新聞学科卒。朝日新聞に入社し、2001年からシンガポール支局長。その間、アフガン・イラク戦争の従軍取材を経験する。政治部、台北支局長(2007-2010)、国際編集部次長、AERA編集部などを経て、2016年4月に独立。中国、台湾、香港、東南アジアの問題を中心に執筆活動を行っており、著書の多くが中国、台湾でも翻訳出版されている。著書に『イラク戦争従軍記』(朝日新聞社)『ふたつの故宮博物院』(新潮選書)『銀輪の巨人』(東洋経済新報社)『蒋介石を救った帝国軍人 台湾軍事顧問団・白団』(ちくま文庫)『台湾とは何か』『香港とは何か』(ちくま新書)。『なぜ台湾は新型コロナウイルスを防げたのか』(扶桑社新書)など。最新刊は『新中国論 台湾・香港と習近平体制』(平凡社新書)

あわせて読みたい
ニュース速報

ビジネス

米「夏のブラックフライデー」、オンライン売上高が3

ワールド

オーストラリア、いかなる紛争にも事前に軍派遣の約束

ワールド

イラン外相、IAEAとの協力に前向き 査察には慎重

ワールド

金総書記がロシア外相と会談、ウクライナ紛争巡り全面
あわせて読みたい
MAGAZINE
特集:大森元貴「言葉の力」
特集:大森元貴「言葉の力」
2025年7月15日号(7/ 8発売)

時代を映すアーティスト・大森元貴の「言葉の力」の源泉にロングインタビューで迫る

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1
    「ベンチプレス信者は損している」...プッシュアップを極めれば、筋トレは「ほぼ完成」する
  • 2
    「お腹が空いていたんだね...」 野良の子ネコの「首」に予想外のものが...救出劇が話題
  • 3
    千葉県の元市長、「年収3倍」等に惹かれ、国政に打って出たときの顛末
  • 4
    イギリスの鉄道、東京メトロが運営したらどうなる?
  • 5
    完璧な「節約ディズニーランド」...3歳の娘の夢を「…
  • 6
    どの学部の卒業生が「最も稼いでいる」のか? 学位別…
  • 7
    主人公の女性サムライをKōki,が熱演!ハリウッド映画…
  • 8
    【クイズ】未踏峰(誰も登ったことがない山)の中で…
  • 9
    シャーロット王女の「ロイヤル・ボス」ぶりが話題に..…
  • 10
    『イカゲーム』の次はコレ...「デスゲーム」好き必見…
  • 1
    「ベンチプレス信者は損している」...プッシュアップを極めれば、筋トレは「ほぼ完成」する
  • 2
    「弟ができた!」ゴールデンレトリバーの初対面に、ネットが感動の渦
  • 3
    日本企業の「夢の電池」技術を中国スパイが流出...APB「乗っ取り」騒動、日本に欠けていたものは?
  • 4
    シャーロット王女の「ロイヤル・ボス」ぶりが話題に..…
  • 5
    「お腹が空いていたんだね...」 野良の子ネコの「首…
  • 6
    千葉県の元市長、「年収3倍」等に惹かれ、国政に打っ…
  • 7
    完璧な「節約ディズニーランド」...3歳の娘の夢を「…
  • 8
    「飛行機内が臭い...」 原因はまさかの「座席の下」…
  • 9
    トランプ関税と財政の無茶ぶりに投資家もうんざり、…
  • 10
    アリ駆除用の「毒餌」に、アリが意外な方法で「反抗…
  • 1
    「コーヒーを吹き出すかと...」ディズニーランドの朝食が「高額すぎる」とSNSで大炎上、その「衝撃の値段」とは?
  • 2
    「あまりに愚か...」国立公園で注意を無視して「予測不能な大型動物」に近づく幼児連れ 「ショッキング」と映像が話題に
  • 3
    10歳少女がサメに襲われ、手をほぼ食いちぎられる事故...「緊迫の救護シーン」を警官が記録
  • 4
    JA・卸売業者が黒幕説は「完全な誤解」...進次郎の「…
  • 5
    ディズニー・クルーズラインで「子供が海に転落」...…
  • 6
    気温40℃、空港の「暑さ」も原因に?...元パイロット…
  • 7
    燃え盛るロシアの「黒海艦隊」...ウクライナの攻撃で…
  • 8
    「小麦はもう利益を生まない」アメリカで農家が次々…
  • 9
    イランを奇襲した米B2ステルス機の謎...搭乗した専門…
  • 10
    「うちの赤ちゃんは一人じゃない」母親がカメラ越し…
トランプ2.0記事まとめ
日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story